夕暮れの土手に小柄な少年が佇み、巨大な川を眺めていた。彼はしばらくそうしていた。彼はこの河に立ち去りがたいものがあった。それどころか、今にも飛び込んでしまいそうな危うさすら覚えた。この河は、他ならぬ彼の恋人の屍が沈んでいるのだ。彼の恋人は吸血鬼によって吸い尽くされ、抜け殻をこの川に沈められたのだった。
彼は常日頃から黒を纏い、自身を傷つけ、血や苦痛を賛美していた。そしてそれに共鳴する恋人と共に、以前から吸血鬼という存在に漠とした憧憬を抱いていた。血を、他者の生を餌食にして、呪われた生を永らえる神秘的な存在。彼らはその生物に対してそのような観念を抱いていた。そして、その犠牲となることを、甘美な感傷を以て捉えていた。永遠なる存在の贄となって共にあること、それは不死となることと同義ではないだろうか？
だが、いかに憧れようと、自分達がその存在を目にすることは無いだろうと、ぼんやりと感じてもいたのだ。だからこそ、勝手に抱いた甘い幻想に溺れこんでもいられたのだ。まさか、それが本当に自分達を襲うだなんて、思ってもいなかったのだ。そんな夢見がちな少年であった彼の世界は一変してしまった。その怪物に彼の恋人が殺されたあの夜から。
共に家を出て放浪していた彼らは、数日を経てニューオーリンズに着いたころには金も尽き、生活は困窮を極めていた。親の庇護の元で甘い幻想を抱いていた日々からは想像もできない生活に、彼は望んでいたものとは別の苦しみを感じていた。それでも、路銀を稼ぐために恋人が考え出した提案に、彼は二の足を踏んでいた。見も知らない相手に身体を売るぐらいなら、このまま自分と恋人の唾だけを飲んで飢え死にした方がましだった。
彼ほどは苦痛や死の観念に浸ってはいなかった恋人は、それならばと、彼を置いて一人で商売に出かけてしまった。取り残された彼は、どうしていいか分からないまま、恋人の後をつけていった。彼を生かすために、恋人が身を売るのを見なくてはならないとしても構わなかった。
恋人は広場を彷徨い、慎重に相手を吟味しているようだった。二人を養うに足るだけを稼がねばならないのであるし、彼よりは積極性があるとはいえ、恋人にとってもまた、売春など初めてのことなのだ。慎重になって当然と言えた。
そんな恋人に、背後からひっそりと近づく人影があった。それはあまりに黒く、細長かった。まるで闇から切り取られたかのような不気味な存在を感じた。しかし、落ち着いてよく見れば、それはただの背の高い、黒ずくめの男というだけだった。
男は恋人に何か話しかけたようだったが、彼の耳には届かなかった。恋人は頷き、男と連れだって歩き出した。交渉成立というわけらしかった。彼は嫉妬とは別に胸の奥に騒ぎ立つ物を感じながら、こっそりとその後を追った。この男から、彼はなぜかいやな感じを覚えたのだ。
彼らは川沿いを歩いていた。やがて恋人の方から腕を伸べ男の首に手を回し、色のない唇に口づけた。男は恋人の背に手を回し、抱き寄せるとその喉に口づけた。その光景に彼は頬が熱を持つのを感じ、もういい加減立ち去ろうと思った。しかし、何かがおかしかった。
彼は羞恥を押さえて目を凝らした。男は恋人の首に顔を埋めていた。恋人の目が見開かれているのは、快感のためだろうか？その身体が強ばっているのもそのためか？彼にはそうは見えなかった。次第に恋人の目は閉ざされていき、身体は力を失っていった。彼は直感的に気がついた。彼の恋人は、血を吸われているのだ！今、彼に恋人は死に瀕していた。
恋人の死にものぐるいの抵抗が男の顔を引っかき、薄くついたその傷が瞬く間に消えるのを目にして、彼は確信した。本物だ！本物の吸血鬼なんだ！！この男は吸血鬼の真似事をする変態なんかではないのだ！！彼は自分の世界がぐるりと一変するのを感じた。
やがて、男は力無く横たわる恋人を抱きかかえると、暗い川にそっと沈めた。こうして、彼の恋人は失われてしまったのだった。これこそが、彼らが夢見た物語ではなかったか？永遠なる怪物によって奪いつくされること、そのままの姿がそこにはあった。しかし、恋人は蘇らず、ずぶずぶと沈んでいくだけだった。彼らの夢は打ち砕かれた。
そして、実際にそれを目にした時、彼が取った行動は、慌てふためいて、足を縺れさせながら逃げ出すことだった。他にどうすることができただろう？彼には分からなかった。後になって思うに、現実に目にするとそれは、甘美さやエロスよりも、即物性や獣性を感じさせる、あまりにそそくさとした行為であるように思われた。またしても彼の夢は打ち砕かれた。
そして今、彼は永らえた命を持てあまして川辺に立っていた。実際のところ、彼はどうすべきなのだろうか？男に復讐を成すべきか？その心臓に杭を立て、その身体と共に恋人の血も無為に流しつくしてしまうのか？それは真の意味で恋人を殺すことではないだろうか？彼がしたいのはそんなことではなかった。では、自分は何をしたいのだろう？
このまま、あの出来事を忘れて日常に戻ることなどできなかった。ふと顔を出した非日常を垣間見て、それを無かったかのようにして歩き出すことは。彼は自分の望みを思った。恋人に会いたい。それしかなかった。しかし、それはどうやって可能となるのだろう？彼は夕焼けを反射する川面に目を落とした。恋人もいるこの中に入れば、それは可能となるだろうか？
しばしの後、彼は川に背を向けて引き返した。この川はあまりに広かった。この中に身を投げたとて、とても恋人と再会できると信じることはできなかった。恋人は何処とを漂っているとも知れないのだ。いかに幻想の問題としても、無理がありすぎた。彼にはもっと妥当性のあるまやかしが必要だった。もっと、恋人との親密さを味わえると信じられるだけの最期が。
川辺に座り黙想していた彼は、天啓を受けたように、突如としてそれが何であるかを悟った。そして、かつての吸血鬼への信仰が変形して蘇るのも感じた。永遠の存在を仰ぎ見るのでなく、共にあること、その中に入ること。その伴侶として蘇るのではなく、餌食として食べ尽くされること―それこそが死すべき存在が永遠を得る方法であり、今や恋人と再会する唯一の方策であるのだ。彼は決意を固め、立ち上がった。
彼は夕暮れの街をそぞろ歩き、錬鉄飾りにかけられたままの、去った祭りの名残らしい色鮮やかなビーズを拾い、首にかけた。それは彼の願いを約束する護符であるかのようだった。沈む日を見て彼は微笑んだ。そろそろ、怪物の狩りに適した色合いを見せることだろう。
彼は今宵、広場の前を彷徨うだろう。迷い傷ついた、孤独な子どもであるかのように。実際のところ、そうであるわけだが。そして彼は背の高い男の誘いかけを待ち、喜んで従うだろう。彼は高い位置にある腰に腕を回し、河へと向かうことだろう。
その腕に抱かれる時、彼は何を感じるだろう？死そのものの腕に抱かれるとはどのようなものなのだろうか？その血を、命を吸い尽くされる時、彼は何を感じるのだろう？恋人はその瞬間、何を見たのだろう？彼はあの夜見開かれていた恋人の目を思い返した。
彼にはまだ何もかも未知の世界であったが、確信を抱いていることもあった。その牙が喉に差し込まれる時、彼の魂は歓喜に震えるだろう。そして彼は、怪物の牙の中から、その貯蔵された血の中から恋人が迎えに来るのを見るだろう。彼の身体もまた川に投げ込まれ、そこで恋人の亡骸と流れることもあるだろうが、それ以上に彼らは不死の男の血の中で巡り会い、永遠に共にあることだろう。
彼らは今度こそ離れることなく、二人愛を交わし続けるに違いない。赤黒く濡れた、どこまでも深い死の河の中で。彼らは、吸血鬼の体内という不滅の愛の巣を手に入れたのだ。
（了）
後書き△
「肉の婚姻」は「食人鬼の体内で恋人達が一体化」をテーマとしていましたが、今回は「吸血鬼の体内で恋人達が一体化」をテーマとしてみました。吸血鬼に憧れる少年達を犠牲者にして。
吸血鬼に対する夢と現実の違いなども織り込みましたが、やはり食人鬼話よりは耽美な感じですな。しかし、クリッシーの体内はどれほどの人数でごった返していることやら。書きながら、『HELLSING』のアーカードの体から出て来た膨大な死の河を思い出した次第。…恋人達がイチャコラしてる雰囲気じゃないなあ。
2007年3月10日