ある日の夕方、ジェイは食材の買い出しのためにフレンチマーケットを散策していた。別に彼は人だけを食べて生きているわけではない。それに、人の肉に付け合わせるための野菜や香辛料も入り用だった。
お気に入りのスパイスや油を買い、一通り用を済ませて荷物を抱えたジェイは、市場にワニの頭が鎮座しているのを見て唇を歪めた。この街の貪欲な胃袋にかかれば、獰猛なワニも立派な食材なのだ。ワニ達も、まさか自分達が食われるとは思っても見なかったに違いない。
しかし、ワニの頭は生前と変わらず目をしっかりと開いて、己の運命を受け入れているかのようだった。食って生きるということは、その内に食われて生かすことをも織り込んでいるのだと。ジェイはワニの物わかりの良さに、素直に敬服した。そして予定にはなかったが、その肉を少し買うことにした。
彼もまたその真実を知っていたが、自分が食われ得るということの実感は、頭ではわきまえていてもあまり無いというのが正直なところだった。彼は犠牲にした少年達のように食肉となる自分を想像したが、貧弱な血の気の薄い肉は彼の食欲を掻き立てなかった。
それに、自分の肉はあまり美味しくないだろうとジェイは思った。彼こそは、ワニすら食らうこの街に君臨する、食物連鎖のピラミッドの頂点に位置する者なのだから。ワニと人がお互いに食い合うならば、その双方を食す彼が両者の上に立つといって間違いではないだろう。
しかしこの美食の街で誰が他に自分の肉が食肉となる可能性に思いを致すだろう？皆、自分が貪るのに精一杯で、貪られることなど決して頭にない輩ばかりだった。貪る者は貪られる者であることを決して忘れてはいけないのに。
ジェイは土手を上れば見えるであろう、豪華客船を思い浮かべた。その中でも人々は熱心にご馳走にパクついていることだろう。しかしそこは底板一枚隔てれば、飢えたワニの住処なのだ。そこではこの市場での哀れな様とは違い、彼らこそが猟師、獲物は人間だった。
ジェイは想像した。船が転覆するか沈没し、人々が河に投げ出される様を。豪華な河旅を楽しんでいた、栄養の良い肉達が悲鳴を上げながら、獲物の気配に寄ってくるワニ達に為す術もなく貪られる様を。恐慌を来たし喚く上半身を残し、水に沈んだ下半身は河を赤く染める。そしてついに全身を河に引き込まれて姿が見えなくなるのだ。
無様な人間達は自らの身体が囓られ、次々と別れを告げるその時まで、自分が食肉であり得るなどと思いもしなかっただろう。実際にはいつだってそうだったのに。
それを意識していれば、河の上で美食に舌鼓を打とうだなんて思わなかっただろうに。自分達が食するワニが、本来は肉食獣であることに思い至っていれば。要は、己が肉であることを自覚することが、己が肉となる機会から護るというわけだ。それはパラドックスじみた真実であった。
ジェイはそれを知っているからこそ、誘い込んだ獲物が無力化するまで決して油断はしないのだ。いつ何時、獲物が獣に変わるか知れたものではないのだから。それが彼なりの、肉食獣として生きる知恵の一つであった。正直、食べられることに興味がないではなかったが、やはりもう少し食べる側を楽しみたかった。
空腹を覚えたジェイは瞑想を打ち切り、市場を抜け出した。河を泳ぎ回るワニ達と同様に、今の彼も餓えていた。しかし河は彼の猟場ではなかった。その隣の広場こそが彼の猟場だった。
そしてワニは獲物をえり好みしないだろうが、ジェイには一定の好みがあった。なるべくなら、ほっそりとした美しい少年が、彼には望ましい食肉だった。それも東洋系なら言うことはなかった。米と豆、そして野菜で育った肉は淡泊で柔らかく、極上の素材だった。肉を常食する人種の肉は、どうしても生臭さが抜けない。香辛料をきかせれば問題はないのだが。ワニ達はそのことを知っているだろうか？でなければ教えてやりたいくらいだった。
食材を抱えたまま、ジェイは広場に向かうことにした。この厳選された材料、ワニの肉にふさわしい食肉と出会えると良いのだが。
（了）
ジェイと美食の街とワニの話。ジェイは自分が食べられる可能性を考えたことがあるのか？とぼんやり思いまして。大きな視点から見れば、貴方も私も皆食肉であり諸行は無常ですな。
2007年8月18日