木々に囲まれた豪奢な館の寝室で、金髪の青年が細い身体つきの少年を抱いて眠っていた。
暗闇の中で少年は目を開いたまま、青年の腕に抱かれて震えていた。彼を撫で回す青年の手つきはひどく優しげで、その感触は彼に歓喜と吐き気をもたらした。しかしその冷たく湿っぽい手を振り払うことはできなかった。あまりにその青年を恐れていたが故に。あまりにその青年の体温に慰められていたが故に。
彼らは同じシーツにくるまれていた。それはぐっしょりと濡れており、感触はごわごわとして、ひどく不快だった。この暗闇では見えなかったが、その布は真っ赤に染まっているのだった。彼の兄の血で。
彼と兄は、思いあまって悲惨な家から脱出してのここ数日、フレンチ・クォーターを彷徨って過ごしていた。彼は幼く、兄もまだ若く、十分に生計を立てる術も持ってはいなかった。あっという間に彼らは餓える羽目になった。これでは地獄から抜け出て、また別の地獄に落ち込んだようなものだった。
だから、広場で身なりのいい青年に声をかけられた時は、とりあえずは助かったと思った。彼らは豪邸に迎え入れられ、たっぷりと食事を摂り、身体を清潔にし、久しぶりに温かい寝床を与えられた。青年は彼らの話を聞いてくれ、その身の上を労ってくれた。彼は満たされ、幸福だった。
しかし、この幸せもいつまでも続くわけではないのだ。彼は自分達の将来に不安を覚えた。眠りに落ちる刹那、いっそこのまま目が覚めなくてもかまわないと願うように思った。そしてそれは正しかったのだ。
夜中に彼は、寝室を照らす明りに目を覚ました。そして自分が裸で、口を塞がれ、手足を縛られ、身動きがとれなくなっていることに気がついた。首を巡らすと、大きなベッドの隣で兄も同様になっていることが分かった。力を振り絞ってもがいても、芋虫が這うほどにも動くことはできなかった。
顔を上げて見回すと、ベッドの端には青年が腰をかけ、こちらを見下ろしていた。手に何か持っているようだったが、彼の視界には入らず、何であるかは分からなかった。彼は懸命に首をもたげて青年と目を合わせたが、その目は静かで、表情が読めなかった。
青年は彼らに何を求めているのだろう？彼らの身体が欲しいのなら、こんなことしなくてもくれてやったのに。青年はそれだけの物を彼らに与えてくれたし、何より十分に魅力的なのだから。しかしここまで入念に相手を拘束する技を持つ人物となると、要望に応えたくとも気味の悪さが先に立つように思えた。
彼が不審に思って見つめていると、青年が片腕を上げた。その手に握られていたのは、大きな金槌であった。彼がそれに対して何らかの感想を抱く間もなく、青年は変わらぬ冷たい顔つきで金槌を力一杯振り下ろした。彼の隣で横たわっている、兄の肉体にそれは命中した。
唖然とする彼の耳に、骨に響く打撃音と、くぐもった苦鳴が入ってきた。兄の悶絶が、隣から伝わる振動の激しさから彼に伝わってきた。それに頓着する様子もなく、青年は何度も何度も、機械的に凶器を振り上げては降ろし続けた。その度に、骨が砕け、肉が爆ぜ、汁が零れる音が彼の耳に嫌でも入ってきた。塞がれた口の奥から漏れる哀泣の悲痛さは、何とも言葉にしようがなく、彼は傍らで何もできず、涙を流した。何故兄がこんな目に遭わなければならないのだろう？彼には分からなかった。
できることなら彼は、逃げ出したかった。それができないのなら、耳を突き破ってしまいたかった。どうして青年はこんなことをする前に、彼の聴覚を奪っておいてくれなかったのだろうか？拘束されていては耳を塞ぐこともできず、口を塞がれては自分の声で音をかき消すこともできなかった。彼は目を固く閉じ、兄が砕かれ、肉塊となっていく音をただ聞いていた。
次第に寝台から伝わる振動や、言葉にならない哀号は小さく、弱くなっていった。きっと今、目を開けば、兄とは似つかぬ、見知らぬ肉の塊を見ることになるに違いなかった。しかし、それでもそれは彼の兄だった。そしてそれはまだかろうじて生きていた。彼は、兄の最期を看取るべきなのかもしれない。しかし彼は目を閉ざし続けた。やがて、隣からは何も聞こえなくなった。彼の兄はただの肉片となったのだ。彼は全身が震えるのを感じた。
彼はできる範囲で身体を固く縮こまらせ、全ての感覚を閉ざそうとした。何も感じたくなかった。彼はその心を、深い土か海に沈めたかった。何も見ることも、感じることはないところに埋まりたかった。青年が、彼の身体にも金槌を振り下ろすならば、好きにすればいい。その苦痛に耐えられるかは自信がなかったが、兄と同じ末路を彼は覚悟していた。むしろ、この状況からの解放は望む所だった。
彼が目をつぶったままいくら待っても、その瞬間は訪れようとしなかった。彼の心臓は恐怖で飛び出そうだった。やるなら早くやってくれ。心底そう願った。こんな恐ろしい待ちぼうけを食うのは真っ平だった。彼の心は焦燥に焼けつき、弱く熱された金網で踊る魚のようだった。
そう覚悟を決めていた彼の胸に、ふわりと何かが触れた。金槌ではないのは明らかだった。柔らかく、さらさらとしたそれは、青年の髪の毛だった。青年は、心臓の音を聞こうとしているかのように、彼の胸に頭を乗せていた。しばらくの間、そうして彼の上に乗っていたが、起き上がると静かな声で、彼に目を開けるよう命じた。
彼はどうすべきか分からなかった。彼に命令したのは、その気になればいつでも自分の肉体をグシャグシャに破壊することのできる男だった。しかし、命令に従順だったとしても、恐ろしい運命から逃れられるとは限らないのだ。少なくとも、兄にはこれほどの罰を与えられるような落ち度は、彼の知る限り見当らなかったのだから。結局彼は、恐る恐る目を開けた。そうするしかなかった。
まぶしい視界の前では、血にまみれた裸の青年が彼を見つめていた。彼が目を閉じている間に撤去されたのか、彼の兄の痕跡は血塗れのシーツを除いて無くなっていた。あれほどの行為の後だというのに、青年の表情は澄んだ泉のように平静そのもので、怒りも憎しみも、残虐さの欠片も見えなかった。その表情は、兄への殺意について何も説明してはくれなかった（説明があったとしても、納得するかは別の問題だが。正当に殺されるのと、不当に殺されるのは、一体どちらがましな死に方なのだろう？）。
兄はどうして殺されたのか？青年は彼のこともまた殺すのか？なぜ今すぐそうしないのか？彼はひどく混乱していた。
驚き、畏怖、その他の混雑した感情に、見開かれたままの彼の目を見て、青年は優雅に微笑んだ。その表情は、白く輝く裸体と淡い金髪と相まって、人間に罰を下すために降りた天使にも見えた。だとしても、彼と彼の兄にそれだけの罰が与えられる理由は分からなかったが。
青年は彼の塞がれた唇に口づけると、薄い手の平で頭をそっとなでた。それは愛する人にするような、夢見るように優しい動作であった。彼はその感触に戸惑った。これまで誰も、彼にそんなことはしてくれなかった。彼を守ってくれた兄も含めて。彼は感触に泣き出しそうになった。
それはあまりに蠱惑的で、彼に痺れるような快感を与えた。しかし、それを成した腕は今しがた彼の兄に無惨な死をもたらした腕なのだ。彼の心は目にした忌まわしい事実と、滑らかな触覚に混乱し、引き裂かれそうになっていた。
青年は彼の拘束を解いて、その胸に抱きしめた。彼は青年のなすがままとなって、赤ん坊のようにあやされていた。実際それは、数少ない甘えることの可能だった日々の記憶を彼に蘇らせた。
縛めが解かれ、その身が自由となっても、彼には逃げるべきか従うべきか判断がつかなかった。その選択は、彼にはどちらも恐ろしく思われた。いつ殺意に切り替わるか知れたものではない気まぐれな愛に身をまかせるのも、反抗して怒りを買い、惨たらしい死を確実にしてしまうのも。
そんな彼の葛藤を知ってか知らずか、青年は真っ赤に染まったシーツで自分達をくるみ、部屋の明りを消すと恋人のように彼を腕に抱いて横になった。程なく、青年の寝息が聞こえてきた。彼は身を固くし、まんじりともできずに、怯えながらそれを聞いていた。
こんな不安定な、愛情と殺意の綱渡りのような境遇はいつまで続くのだろう？それはすべてこの、天使の如き外見を持ち、その威厳を寸毫も崩すことなく少年を叩き潰し、その弟を愛撫する青年の気分次第なのだ。
彼はこの青年が恐ろしかった。それは、古代の残忍な皇帝に弄ばれる奴隷の心境に等しかった。いと高き存在に気ままに蹂躙される、どこまでも無力な存在。きっと、何もかも諦めて、身も意志も全て委ねれば楽になれるのかもしれなかった。この恐怖も何もかも。
しかしその身体の温もりに感じてしまう、どうしようもない畏怖、そして抗いがたい魅惑を、完全に捨てることはできそうもなかった。
（了）
犠牲者側から見たジェイその2。今回は、ジェイの殺意と愛情のスイッチの入り方の理不尽さと言いますか、わけのわからなさを書いてみたく。犠牲者にはたまったもんじゃありませんが。そんな殺人者にガクブルしつつも、魅了される部分もあって大困惑、という心境を書くのにも挑戦しましたが難しいですな。
2007年1月19日