夜更けのフレンチ・クォーターの賑わいの中、黒い革の上着を羽織り、ビーズを首にかけた若者が、浮ついた足取りでそぞろ歩いていた。彼はかなり酔っていた。憧れの街の音楽に、喧噪に、何よりも美酒に。それはあまりに心地よく、その視界に街灯の列が傾いて映ろうとも構わず、彼は機嫌良く歩いていた。
彼は以前から、この街を旅することを願っていた。今なお、過去に支配した異国の香りを残す、同国の中の異郷を。今、その願いは叶えられ、彼はこの街を夢見る人のように歩いていた。何もかも、酔いどれた夢でないことを祈るばかりであった。
彼が経験した、何もかもが素晴らしかった。肌にまとわりつく様なむっとする空気も含め、彼は全てを吸収せんとばかりに、この街を貪った。褐色の大河の雄大な眺めも、背の低い家々を飾る繊細な鉄レースも、ガタゴトと音をあげて進む馬車も、街を走る緑色の電車も、沼地をゆったりと渡るボートも。独自に発達を遂げた、濃厚な味のごった煮料理や、具沢山の米飯、喉を滑り行く生牡蠣も。真っ白な粉雪の山を載せた揚げパンと共に味わう、すっきりと苦いコーヒーの味も。
また、彼はこの街の夜をも存分に楽しんでいた。夜毎にどこかしこで奏でられる哀愁の旋律、または激しい律動や爆音も。紙の飾りを挿したカップに満たされた、情熱的な赤色をしたカクテルを始め、大量に消費される酒類も。そして、時に密やかに、時に公然と繰り広げられる、女性、または男性との交情も。何もかもが信じがたい程に甘美で、この街での経験を反芻して彼は、目眩すら覚える程だった。
その夜も彼はあちらこちらの店を飲み歩き、十分に酩酊していた。自分で自分の面倒を見ることもできなくなるには十分な程、この街の危険度に留意していたはずの、彼の注意力を蒸散させるにも十分な程に。
いつの間にか、彼は明るさや賑わいや音楽から遠く離れ、暗く狭い道をよろめき歩いていた。ここはどこだろうか？自分は今、どこにいるのだろう？重い頭をもたげて見回したところで、判るはずもなかった。酔った彼の頭に、警告ランプがほのかに灯った。
ここから離れなければ。どこか人通りのある所へ行かなくては。そう判断したところで、どうやってここへ来たかも判らない彼に、どこをどう歩けば安全な場所へ行けるかも判りようがなかった。
諦めかけて立ち尽くした背に、ジャケット越しに硬い何かを突きつけられたことに彼は気がついた。頭蓋骨の中で警告ランプは激しく点滅し、耳の中では聞こえないアラームが鳴り響いた。ピストルだろうか？ナイフだろうか？まださほど強くは押しつけられてはおらず、背中の鈍い触覚と、いささか醒めたとはいえ未だ酔っている頭では判別できなかった。
しかしいずれにせよ、それが金を巻き上げるために彼を脅し、意に沿わなければ傷つける―あるいは命を奪うためにふるわれる凶器であることは疑いない。そして今夜の彼は、ホテルから持ち出した金をほとんど飲み歩きに費やしてしまい、強盗を満足させるほどの金は持ち合わせていなかった。小銭で満足してくれる強盗ならば話は別だが。
奔放な旅の終りをその身に感じ、彼の意識は深い闇に突き落とされた。目の奥の映写機に、これまでの人生で見てきた物が次々と、浮かんでは消えていった。そして、まだ見ていない「何か」までもが霞んで見えた。それが何であるかは判らないが。彼がこれから見るはずだった「何か」、この人生で見たかったはずの「何か」が。それが己の不注意のために、こんな形で終わるとは。その思いに、その目に涙すら浮かんでは来なかった。
彼は身を固くして、最後の一撃を待った。どうしようもなく身体が震えた。今更怖がってどうする、と彼は自分に言い聞かせた。今の彼は、もはや逃れようの無い蟻地獄に落ちたような物だった。もがけばもがく程苦しむだけだ。願わくば、死が速やかに訪れんことを。与えられる衝撃は鋭く熱いのか、それとも鈍く冷たいのかなど、考えてもしょうがない。それを受けた瞬間、自分の魂は全く消え去るのか、それとも何処かへ解放されるかなどとも。
そのように覚悟を決め、目を閉じて最後をの瞬間を待っていた彼だったが、致命的な一撃はいっこうに訪れようとしなかった。身体中を緊張させていた彼は、背中の硬い感触が失せていることにもなかなか気づかなかった。
「危ない所だったね」
背後から、静かな、低い声がかけられるまでは。
聞き覚えのないその声に、彼は慌てて振り向いた。そこには、黒いコートをまとった、背の高い男が、彼の方を向いて立っていた。いかなる仕業に依ってのことなのか、その足下には、見知らぬ、みすぼらしい男が倒れている。それが彼を襲った強盗なのだろうが、彼に突きつけられていた武器はその手になかった。
「心配はいらない、気を失っているだけだ」
彼の視線の動きに、男は気遣うように説明する。男は、彼がこの強盗の生死を案じていると思ったようだ。彼は別に、他人の懐具合に生活を預けるこの阿呆を心配していたわけではなく、自分を脅かした凶器の行方を気にかけていただけなのだが。
男は、彼を和ませるかのように薄く微笑んだ。そして、首元を指し示していった。
「そのビーズは外した方がいいね、マルディ・グラでもないんだから」
彼は頬が熱を帯びるのを感じた。そうだ、これでは無知な観光客だと喧伝しているようなものだった。きっと、この男は彼のような、うかつな旅行者には慣れっこになっているに違いなかった。
不意に、彼の目に涙がにじんだ。安堵のためか、歓喜のためか、自分にも判らなかった。自分は、助かったのだ。彼の人生行路は、ここでは終わらなかったのだ。それもこれも、その謎の男のお陰で。
我知らず、彼は男の首っ玉にかじりつき、その顔中にキスの雨を浴びせていた。それは素面の彼ならば、余りやりそうもないことで、酷い恐怖を味わったにも関わらず、自分の酔いは完全に醒めていないことを頭の片隅で自覚していた。しかし、そうせずにはいられなかった。男は彼の、命の恩人なのだから。
間近で見る男の顔は不健康にすら見えるほど蒼白で、体つき同様ほっそりとしていたが、酔った彼の目には、一種独特の美しさがあるように見えた。彼は、命を救ってくれたこの男に、自分に出来るだけの礼をするつもりだった。その身を投げ出してでも。
男は、突然の彼の行動に少し驚いた様に身を固くしていたが、やがて受け入れるようにその強ばりを解くと、彼の背に、その骨張った手を回し出した。男の指の這う感触は冷たくも優しかった。首筋に男の乾いた唇を感じ、彼の瞳は暗く輝いた。
彼は知らなかった。自分がスキュラから助け出され、カリュブデスに飛び込んだことを。
（了）
「志村ー！うしろうしろー！」というお話でした。…もっと言うと、凶悪犯から助け出されたと思ったら、助けてくれた人の方がよっぽどヤバい生物でした、という話を書きたくなりまして。
あと、観光都市・ニューオーリンズの陽の面と影の面も書いてみたく。見所満載で魅力的な観光地にして犯罪率もハンパなく高いとのこと。あうあう。そして、「マルディ・グラでもないのにビーズを首にかけてる」は、ポピーＺが公式サイトで警告するほどの超禁止事項らしいです。「あんた達！それやったら『アタクシ観光客でーす☆金奪ってヨシ！』って言ってるようなモンよ？！絶対にお止め！（意訳）」だそうな。
あと、密かにクリッシーの戦闘面での強さも書いてみたく。ムチャクチャ強いらしいですが、作中では、ウォレス相手ぐらいにしかふるわれてなくて我ションボリ。若い頃のジェノサイダークリッシーが見たいですポピーZ神よ。そんなLS外伝が出たら、泣いて喜ぶ信者が結構いると思うのですが、ポピーZ神はもうLSキャラを使用する気は全く無い模様。残念。
ところでこの話、クリッシーは若者の後をつけていたのか、それともたまたま通りがかったのかで読後感が大分違いますな。私は特に考えてなかったのでお好きな方をどうぞ、と言いたいところですが、暗い危険な道を、いくら吸血鬼とはいえ通りすがるものでしょうかね。とすると…。
2006年12月10日