その日、モロカイはかなり寝坊をした。いつももそう早起きな方ではないのだが、今日は既に夕暮れ時という時間であった。
ぐちゃぐちゃのシーツとゴミ―ほとんど紙袋や酒瓶で構成されている―の中で一人、目覚めた彼は、慌てて隣室に駆け込んだ。そこには、仲間の一人がいるだけだった。先日、彼と相棒のトウィッグが十五年ぶりに発見した仲間が。
クリスチャンは彼の姿を見ると、他の仲間達は既に出かけたことを告げた。ジラーが、ナッシングの遠出に、運転手のトウィッグを連れて行ったと。気短なリーダーに、モロカイは置いてけぼりにされたのだった。
そしてクリスチャンも、自分ももう少ししたら仕事場に行くと言った。ということは、その車を使って仲間を追うことは出来ないわけだ。クリスチャンに留守を頼まれたモロカイは不機嫌ながらも肯き、転がっている紙袋をがさごそ漁った。中身は、先日食料品店で購入したカップケーキだった。
さもバターと卵をたっぷり含んでいると、これ見よがしに黄色く脂じみた姿の生地の山の上を、これまたごってりとぶ厚い糖衣の飾りが、積もり積もった頑固な雪のように、ほとんど覆い尽くしている。このような糖分の塊が、彼の朝食代りであった。このようなことは、それこそ日常茶飯事だった。
その甘さがもたらす至福に、彼は無心にかぶりついた。数口であっという間に食べ終え、仕上げに指のベタベタを舐め取っていると、彼の起き抜けの食事風景を、無表情に眺めているクリスチャンと目があった。
その目は相変わらず表情が読めなかったが、単純に、起き抜けの胃に脂物を放り込む者へ、食の細い者が向ける脅威に満ちた眼差し―意訳すると「よく食べられるなあ、そんな物」に過ぎないのかもしれなかった。しかしそうではない可能性だってあった。どうも彼は、この言葉少なめな仲間とは、他の仲間とするようには意思疎通がし辛いことをぼんやり感じていた。
視線に気づいたモロカイは、ゴソゴソと紙袋からもう一つを取りだして差し出した。
「食うか？」
クリスチャンは少し驚いた様な顔をしてから、やがて首を振った。
「結構だよ。人間の食料を消化できる身体じゃないんだ」
モロカイは今になって、十五年前の夜に酒を浴びるように飲んでいた彼ら三人を、ただ見ていた男の姿を思い出した。
「ああ、そうだったっけ。酒だけじゃなくって、飯もダメだったか？」
「そうだよ」
返事を聞きながら、彼は既に二個目のカップケーキを平らげていた。目の前の男は、彼の数倍にもなる年月を生きながら、シャルトルーズの焼けるような甘さも、白砂糖の痺れるような甘さも知らないのだ。彼にとっては血液と同様にお馴染みであり、欠くべからざる快楽を。
「なあ」
「なんだい」
「うまい飯も食えない、酒も飲めない…」
モロカイは少し言い淀んだが続けた。
「クリッシーって、何が楽しくて生きてるわけ？」
その問いは、暫しの沈黙を以て迎えられた。モロカイは、少しマズかったかな、と内心で首をかしげた。この質問は、相手を怒らせたかもしれない。これまでの付き合いで、そのような感情を露わにする相手の姿を目にしたことがなく、その沸点やスイッチの在処が彼にはよくわからなかった。
僅かに緊張を覚えてモロカイはクリスチャンを見上げた。相手は平静な顔をしていて、気分を害した様子は見えなかった。その目は遠くを見ているようで、どこも見てはいなかった。それは己の内部を入念に検索している目だった。どうやら、常日頃あまり、考えたことのない事項だったようだ。
モロカイは、思い当たる可能性を提示してみた。
「血か？」
男は溜息をついた。それは正解の印であるようだった。
「そうだね…楽しめる味があるとすれば、それ位のものだろうな」
その返答には疲れたような響きがあった。そんな自分に嫌気が差しているとでも言うかのように。相手の表情に、モロカイは釈然としない思いを抱いた。唯一の御馳走を、心底からも楽しめないとは、なんてもったいない奴だろう。
モロカイは頭に閃くものがあった。自分なら出来るのだ。相手に疲労を覚えさせるらしい殺戮を経ることなくに、相手が唯一享受できる食事を提供することが。そして彼はその直感に従った。突然、机の角で空き瓶を割り、その破片を己の手首に走らせた彼に、クリスチャンは当然驚いた顔を見せた。
モロカイは笑って、ぱっくりと赤く開いた傷口を差し出した。
「じゃあ、これが俺からアンタに贈れる、一番のデザートってわけだ！」
そう言っている間にも、貴重な食料はぽたぽたと滴っている。クリスチャンは戸惑っているようだったが、傷口を唇に押しつけられると、躊躇いがちに彼の手首からしたたりを舐め取った。そして次第に、より熱心に吸いつき出した。
この瞬間、平生は謹厳そのものな相手の表情も陶然としているように見えた。その姿は、獲物にしゃぶりつく肉食動物を思わせた（実際、他の食物は一切受け付けず、血のみに食の幸福を味わえる男は、血の獣と言っていい存在ではある）。やはり、その甘さを味わうのに夢中になっているのだろう。甘いのも道理、その血液は通常人より多少、いやかなりの糖分の結晶が含まれるはずなのだ。ならば、彼の血を通すことでやっと、この仲間は、直接食することはできない砂糖の甘さを味わえることになろう。モロカイは十五年前、この男にシャルトルーズの味のする血を分け与えたことを思い出していた。
暫くそのような時間を過ごしてから、クリスチャンは立ち上がり、口を拭うと仕事に出かけていった。モロカイは部屋の中で一人、車が出ていく音を聞いていた。仲間達が皆外出してしまい、彼は珍しくひとりぼっちだった。相棒達はしばらくは帰ってこないだろう。その予想は彼を、苛立たしいような情けないような気持ちにさせた。一晩置いて行かれるだけでこんなに心乱れるのなら、それが数百年続いたとしたら、一体自分はどうなってしまうのだろう？
嫌な想像を振り払うように手足を伸ばすと、床に散乱する紙袋に当たり、彼は何か固い感触を蹴ったことに気がついた。出てきたのは、先日カップケーキと一緒に購入した酒の瓶だった。皆で回し飲みするつもりで買ったまま、忘れてたのだ。
モロカイは、これを共に今夜を乗り切ることに決め込んだ。一人の夜を、何か考え込んだりして過ごすのは、彼の性分ではなかった。この日は、それには滅多にないチャンスではあったのだったが。彼は瓶の栓を開けながら、先程見せた様な、血がもたらす陶酔の瞬間のみを救いに、永劫の夜を歩いている仲間のことをぼんやりと思ったが、酒が回るにつれてその思考も薄れ、酩酊の闇に消えていった。
（了）
甘党吸血鬼と、血しか食せない吸血鬼のお話でした。平たく言うと、
「なんかスゴイ物食べてるなぁ…」と「血しか食えないなら、目一杯血を楽しんじゃえば？」対決と言いますか。別に対決してないか。
プロローグの彼らの吸血行為も蒸し返してみたり。あの辺りの、熱心すぎてミョーに可愛いような怖いような、なクリッシーも好きであります。そんなにモロカイの血は美味しかったのか。
2006年12月17日