暑い夜だというのに黒いコートに身を包んだ男が、長い裾を翻して部屋を後にする。その影を追うように投げつけられた枕は、閉められた戸に遮られて床に落ちる。それは何度も何度も繰り返された、お決まりの光景だった。小さなバーの上階に、痩せた少女が住み着いてから何度も。
幾度断られても、その少女・ジェシーは諦めようとしなかった。一階にある酒場を閉めてから外出しようとする家主に、自分も連れて行って欲しいと懇願し、その度に断られては当たり散らし、扱いかねた様子で無言で出て行かれ、結局いつも部屋に一人取り残されることになろうとも。
当然の如く、その日も彼女は置き去りにされた。ベッドや備え付けの家具以外、ほとんど何もない部屋に。することもなく、彼女はほぼ一日を過ごしているベッドに横になった。
ベッドは硬かったが、ドアの所まで枕を取りに行く気にもなれなかった。暗い部屋の中で彼女は目を開くと、天井の模様を見上げた。この部屋で読む物といったらそれくらいしかなかったが、まだ目が慣れなくて何も見えなかった。
彼女はしばらくぶりに、本が積み上げられた自分の部屋を思い出した。血や呪術や怪物達の本で一杯の、禍々しく混雑した書斎を。そして今や自分は、その本で読んだ怪物の中でも、特別なお気に入りと共に暮らしているのだ。幼い頃からの夢が、目の前で形を得て現れたようなものだった。
一体何が彼女をこの部屋に導いたのだろう？彼女は時折不思議に思うことがあった。客として階下の店に通っていた日々、自分がこの部屋で天井を眺めることになるなどと、彼女は夢にも思ってはいなかった。
ましてやあのバーテンダーが、本当にヴァンパイアだったなんて。その外見や物腰に、自分が探している存在を思わせる要素を感じ取り、惹かれる様にして通いつめていたのは確かだった。だが、あくまで「ヴァンパイアらしく見える人間」として見ていただけなのだ。意識の上では。
彼女には、全てのことが夢のように思えることがあった。ヴァンパイアと出会い、共に暮らすことになった出来事の全てが。彼がくしゃくしゃの髪をした大男の手首に、熱心に舌を這わせていた時のことも、その一ヶ月後、独りで店の前に立っていた彼女を、中に招じ入れた時のことも。しかし今、彼の大きなベッドの中で天井を見上げているというのは夢ではなかった。
彼女の中の正常な部分は、未だにその事実に驚きを覚えているようだった。
「まさかあたしが、ヴァンパイアと一つ屋根の下に暮らしてるなんて！」
それと同時に、それ以外の部分はその事実を当然の如く受け止めていた。
「ずっと探し求めてきたんだもの、当たり前だわ！」
祭りの日の出会いは彼女の世界を一変させ、その狂気は以前より進んでいた。
しかしその彼女の頭でも、実在の怪物は本の中のそれとは大きく異なることを認めねばならなかった。その名前からして。彼女の同居人は、彼女の愛読書の主人公達とはかなり違っていた。彼は絶大な力を持った闇の貴族でも、墓から蘇った惨めな死人でもなかった。
彼は全く違う生き物だった。彼はいつも、日が沈む頃に目覚め、店の準備をし、店を開き、酒をつぎ、客の応対をし、店を閉め、掃除し、時折彼自身の食事に出かけていた。それは夜間営業の仕事に従事していれば、普通に見られるであろう生活だった。その食事の内容を不問にするとすれば。
そして彼女は、その食事に同行したがっては断られていたのだ。その信じられない程に背が高く、痩せぎすで蒼白な外見を別にすれば、その生活態度の勤勉さはあまりに人間的で、彼女は彼が人外の怪物であることをしばしば忘れそうになった。
食事の現場―実際に人の血を吸う所を見れば、また信じられるだろうと彼女は思ったが、もちろん彼は、狂女の妄想を強化するために狩りに連れて行ってはくれなかった。あの祝祭の日以来、彼女は彼の怪物らしい姿をほとんど目にしていなかった。
何より彼女にとって意外だったのは、彼の部屋に本がほとんど無いことだった。知性ある夜の貴族達はその永遠の時間を、ほぼ読書に費やすのだろうと彼女は思っていたのだが。その当ては外れたものの、彼女は失望したわけではなかった。読書によって築かれた物ではないにせよ、彼女の同居人には不思議な叡智があるのだから。そしてそれとの関係は不明ながら、彼は人間にもなかなか見られない程に親切だった。
そうでなくては、自分は今ここにいないだろうと彼女は思った。元々二人は、店主と常連客以上の関係ではなかったのだ。誰とも知れぬ男の子を孕んだ娘を、彼が世話しなくてはいけない義務は無いはずだった。それでも彼は彼女と、腹の中の子の面倒を見てくれていた。
それをさせるのは彼女に対する同情なのか、彼の仲間であるらしい、あの緑目の男への義理なのか、新たに誕生する彼の仲間に対する希望なのか。彼女には判らなかったし、どれでも良かった。
彼女は服の上から自分の腹を撫でた。段々と膨らみを増してきた腹。この部屋に押しかけてから数ヶ月、体調は以前より安定を見せていた。一番不安定だった頃、ひっきりなしに嘔吐物で満たされる洗面器を回収し、中身を捨てては洗い、再び枕元に戻しておくのは家主の仕事だった。
もちろん彼の仕事はそれだけではあり得なかった。二人分の身体を養う滋養ある食事を摂らせ、その身体を清潔に保ち、健やかな生活を彼女に与えるため、彼は恐らく世界一忙しい吸血鬼になっていた。
数世紀を生き永らえている存在が、たかだか16歳の人間の娘のために駆けずり回るというのは、一体どのような気分がするものなのだろう？その疑問に彼女は笑みを浮かべた。当人に訊いてみても良かったが、きっと肩をすくめて終りになるだろうと思った。
暗さに目が慣れると、彼女の目にも天井の模様が見えてきた。それは彼女の行く先を示す地図にも見えた。それは滲み、茫漠としていた。目を開き腹を撫でながら、彼女は自分の中で育っている怪物のことを思った。
そしてそれが自分を滅ぼすであろうことも漠然と感じていた。出産を経て自分は、きっと無事ではいられないのだろうと。特に能力を持っているわけではなかったが、彼女には何故だか予感があった。
彼女はヴァンパイアの母の運命を、知識として知っていたわけではなかった。少なくとも同居人から、ちゃんとした説明を受けていたわけではなかった。また、それを聞き出すのも何とはなしに憚られた。
それでも、穏やかな日々（彼女が暴れない限り）のやりとりでの些細な違和感に、彼女は自分の末路の不吉な方向を読み取りつつあった。例えば、彼女が赤ん坊誕生以後の将来を語るとき、何故彼の、いつもは冷静な目に軽い揺れが走るのか？何故その背は普段以上に固くなるのだろう？
要するに、彼は嘘が下手なのだろうと思った。もう数百年もの間、人間達の中で生きているというのに。あるいは、あまりに嘘をつき続けて疲れてしまったのかもしれない。だから、せめて己の正体を知る狂った女相手には、つかずにいたいのかもしれない。幼くして母となる娘の夢物語に、気休めの言葉もかけられない程に。
彼の気性を思えば、あり得ない話ではなかった。そしてそんな彼だからこそ、彼女は自分の行く末について問いただす気になれなかったのだ。別に気を悪くはしないだろうが、それはひどく彼を苦しませることになるに違いない。彼女は「己の悲惨な運命を知らない愚かな娘」を演じきることに決めていた。
そんな彼女の予測が正しいとすると、今彼女の中にいる生物は、どうやって彼女を殺すのだろう？月が満ちると、その幼い牙を立てて内側から母の血を吸い尽くしてしまうのか？しかる後に萎んだ産道から這い進み、自力でその皺の寄った出口から頭を出すのだろうか。彼女の空想上のその生物は黒っぽい髪を持ち、青緑の目で干からびた母体―彼女自身を見上げていた。
それならばきっと、彼女の願いは叶えられるのだろう。彼女は寝返りをうち、溜息をついた。ヴァンパイアに飲み干されてその生涯を終えるという、彼女の永年の願いは。その仲間になって共に生きるという夢は、同居人の説明によって潰えたものの、永遠に生きる怪物の素材となり、燃料となってその身体の中で生き続けるという願いは無にならずにすむらしい。
それは当初の相手とは違っていたが、これで満足するしかなさそうだった。彼女が自分を餌食にして欲しいと願い、その血の中で永遠に共にいたい相手には、今のところ彼女に牙を立てる気が全く見られないのだから。そして恐らくはこれからもずっと。いくら挑発しようとも、その永劫の生で培われた忍耐力の前には無力だった。
その彼は、乾ききった母体から取り上げられた乳児、彼の仲間を、どのように育てるのだろう？その父にも母に去られた赤子の父母の役を、一身に薄い背中で担ってくれるだろうか？彼女は、自分抜きでの家族生活の想像に、愉快さを味わっていることに気が付いた。
子を遺して逝くという想像も、彼女を感傷的な気持ちにはさせなかった。彼女にとっても、母親とはそうしたものであったのだから。十年前からずっと。からっぽで血の海に沈み、幼い者の必死の呼びかけにも反応しない冷たい存在。その様な母を持った自分が、今度は子にとってそうなるのも、当然の帰結に思えた。
彼女は思い描いた。この街のどこかの裏ぶれた暗い通りで、首を切り裂かれた犠牲者に吸い付く、小さなもぞもぞと動く肉塊を。それは母乳に吸い付く本能的な熱心さで、熱い奔流を飲み干している。犠牲者が絶命すると、満腹して丸々とした躯を、黒い手袋に包まれた骨張った手が抱き上げる。細長い指が真っ赤な口元を拭ってやると、微かな呼気の破裂音の後に怪物は眠りにつくのだ。
いや、あるいは、そうではないのかも知れない。彼女は思い描いた。養育者自らが、その不死の血を小さい仲間に与える様子を。軽く傷を付けた白い首筋から行われる、それは奇妙な授乳の光景だった。だが、その光景も彼女には納得がいくように思えた。胎内にあってはその不滅の精液が育んでいるのであるから、きっと彼の血もその同族の嬰児を立派に養うに違いない。
その黒っぽい血が小さな口を満たす様を思い浮かべた。彼女はほとんど味わったことも、見たことすらないその血を。（いつだったか、彼女が頬をひっぱたいた弾みに、爪で引っかいてついた傷にうっすらと滲んだのを目にしたが、その傷もみるみるうちに消えてしまったのだった。それはどんな力の発露よりも、その怪物性を示しているように思われた。）
彼ならば、彼女の子の良い養育者になってくれるだろうと信じていた。ヴァンパイアの血を引く赤ん坊の育て親として、これ程理想的な相手がいるだろうか？生活力を持ち人間の中で生きる術に長け、かつ一族の獣性を知り抜いている先達。
彼女はそのために数ヶ月前、この店の前に立ったのだから。父が待っているであろう自宅ではなく。きっとあたしの赤ちゃんは良いヴァンパイアになるに違いないわ、と彼女は枕にしている腕に呟いた。「良いヴァンパイア」の定義は、彼女にもはっきりしないのではあったが。
いつしかその夢想の中の嬰児は幼児になり、少年となっていた。白く細く性別のはっきりしない、長い髪で顔を覆った暗い瞳の生き物に。そして成長した彼は自ら首を切り裂き、養父にその血を捧げていた。まるで、母親の胎内にいた頃からずっと養ってくれた恩返しをするかのように。
そしてその養父は―今と全く変わらない姿の背の高い男は、恭しくその捧げ物を受け取っていた。あのマルディ・グラの夜のようにその冷たい唇を血に染め、普段は見られない獣の目で、彼は、自分の仲間と、自分が何度も身体を重ねた娘の間に生まれた子ども、彼自身がその身体の形成期から養い育てた子どもを貪っていた。
二つの怪物は黒ずんだ血の海に倒れ込み、青白い身体を重ね合っていた。痩せた白い身体に黒い髪をした彼らは、血は繋がって無いにせよ奇妙に類似していた。彼らはお互いに何を見ているのだろう？年老いた男はかつての己の姿を、身体の成長が雄性に舵を切る以前、両性具有の生物だった頃の幻を、幼い者はいずれ自分がなるであろう、多くの可能性の内の有力な一つを、それぞれ見ているのだろうか。
彼らがその身を浸している血は、少年の首から出たにしては多すぎるようだった。首に牙を立てられたらまず助からない彼女と違って、少年の傷はすぐに癒えてしまうのに。どこから湧いて出たのだろう？夢の傍観者である彼女がふと自分の足下を覗き込むと、そのぬるんだ血は、他ならぬ彼女の足の間から絶え間なく滴り落ちていたのだった。
その、ややグロテスクな光景も、彼女の気分を悪くはさせなかった。むしろそうなることを願ってすらいた。多分、自分はそのために産むのだろうと思っていた。自分が愛した吸血鬼に、自分とは違って永遠に共にいられる仲間を与えるために。怪物の癖に親切で、ひどく寂しいあの人が、もうひとりぼっちでなくなるように。
いわばこれは、彼女の腹の中で蠢いている異なる種族の生き物は、彼女から、幸運な怪物に与えられる、最大にして最後の贈り物なのだ。それは、中性的な美貌に大きな手をした男の光る精液と、彼女自身の血と命で拵えられ、お祭りで配られる色鮮やかな菓子に隠された、小さなキリストの嬰児だ。
そしてそれを彼が引き当てることで、彼女の願いも別の形で叶えられるのだから。半分は彼女の身体から作られる子どもが彼に愛されるなら、ピンク色をした神の子が囓られ、その血が冷たい唇を温く濡らすなら、それは半分とはいえ、彼女の血をも味わっていることにならないだろうか？結局、いくら彼女に牙を立てることを拒もうと、彼は彼女の血を味わうことになるのだ。そう考えることで、彼女は自分の行く末を承認することができそうだった。
そして気が付いた。実在などしないかも知れない存在を探し求めた日々、自分が何を本当に望んでいたのかを。彼らの仲間になれるかどうかは、実はたいした問題ではなかった。核心は、この世界の夜を渡る、永劫の意識を保つ存在に触れること、そしてその不滅の存在の一部となることだったのだ。
彼女の子どもは、きっとそのために産まれるのだ。死にゆく母に代わって、その血の半分ばかりを不死の存在に届け、その、時の前に滅びない身体の中で、再び母を蘇らせるために。そうすれば、あたしは彼の…クリスチャンの血管の中で永遠に生きられるのね…ほとんど永遠に。
不思議な幸福感に満たされながらも、もうそれ以上考えることはできなかった。彼女は暑い夏のもたらす気だるい眠りに沈み込んでいた。だから、玄関のドアが静かに開かれたことにも気づかなければ、頭の隣に、拾い上げられた枕が優しく置かれたことにも気づかなかった。
（了）
後書き△
ＬＳで一番好きな男女カップリング・ジェシー＆クリッシーで話が書きたかったので書きました。こんな感じに、彼らの9ヶ月間の結婚生活を妄想するだけで全自動でご飯が美味しゅうございます。期限付きの恋愛とはいえ、彼らはそれなりに幸せだったと信じています。でなきゃラスト近くまで、ジェシーの血のシミとクリッシーの血のまじりあいを書きゃしないかと！
っていうか数百年生きてるクリッシーにとっては、ジェシーは長い人生の少しの時を共にした、人間の娘の一人に過ぎないだろうに、十五年間も引きずりすぎなんじゃー！どれだけアンタの中でビッグな存在だったのジェシー！彼女個人がどうと言うより、仲間の子を産んで死んだ女性というのが大きいのかも知れませんが。
原作読んでの疑問、「ジェシーは自分が出産時に死ぬことを知ってたのかな？それとも知らずに、クリッシーと一緒に子育てする夢を描いてたのかな？」も織り込みつつ。この話では、後者は哀しすぎて私の手に負えないので前者を採用しましたが。本当のところはどうなんですかね。
でも産まれた子をクリッシーが育ててくれる夢を見させてはみたり。それが彼女の願いでしょうし。…だからクリッシーんち押しかけて住み着いたんだよな？！
それなのにあっさり赤ん坊を金持ちの家に捨てちゃってクリッシーのバガー！とわめく気持ちもありつつ、再会時に「こんな美少年になるなら自分で育ててりゃ良かった…」なクリッシーに対して、「日中寝てるのにどうやって子育てする気だったんだアンタ」とつっこむ気持ちも混入。どっちにしろクリッシーに対して辛く、ホントにファンかと思われるでしょうがオトメゴコロは複雑怪奇なのです。
…でもクリッシーがナッシングを育ててたらという妄想は、クリッシー＆ナッシング好きの誰もがやることだと勝手に思ってます。私も実によくします。昼間動けないことを除けば、イイお父さんになったと思うんだけどなぁぁあ！
でもクリッシーに育てられてなお、寂しい子どもに育つナッシングも哀しいものがありますが、かといって円満具足なイイ子に育ったら、それはもはやナッシングではない気もします。難。何はともあれ、近親相姦すれすれの疑似父子カップルバンザーイ。
近親相姦について当方は、自分の受精卵を作成したチ○コとどうこうするという肉体的な禁忌よりも、自分の心身を作り上げ、良心・規範として内面化された存在と以下略な、精神的な禁忌にゾワゾワするタチです。もっとぶっちゃけると、見知らぬ生みの親とヤルより、育ての親とヤル方がキッツイ感を強く感じます。それこそ世界がぐしゃりと崩壊しそうな出来事ではないかと。
それだけに第二部の冒頭が、親子になってたかもしれないクリッシーとナッシングの中略なことに、ナッシングの新生の意味を読み取ろうと努力はしつつも、名状しがたいモヤモヤも感じてたり。いや、萌える萌えないで言ったら萌えるんですが。でも…うーんうーん。禁忌感が強い分、エロスも増強されるのは判りますが。でもやっぱ禁忌…イヤーン感が先に立つなぁ…。社会的な力関係逆転させての息子×父親は萌えますが。
2006年8月10日