ある凍えるように寒い夏の晩、バイオリンロードを放浪する老人で当座の飢えを満たしたクリスチャンは、先ほど自身の店で出逢った、印象的な少年のことを思い返していた。
美しく、かつ風変わりな少年、何故だかどうしても牙を立てる気にならなかった少年を。まるで彼の心―仲間を待ち侘びる心を読んだかのように、彼に慰めの言葉をかけてくれた少年のことを。それに対する彼の性急な問にひどく混乱してしまっていた様子を思い出し、彼はあの少年に悪いことをした気持ちになった。
彼自身にはそのような力はなかったが、若く繊細な心には時折芽生えるものなのだろうか？彼は、以前にもこのようなこと―少年に心を読まれる体験―があったのを思い出していた。それは彼が逃げ出してきた故郷での話、そう遠くない昔の出来事だった。
あの少年も、夕べの少年と同じような細いブロンドの髪をしていた。そして、何かに迷っているかのような内気そうな瞳もよく似ていた。しかし先ほどの少年があくまで無心で、真っ直ぐ前を向いているのに対して、その少年はより俯き気味に暗い方に目を注ぎ、内にこもっている印象を与えた。
それでも彼の目にとっては、少年は申し分なく美しかった。健康さと引き替えに優美さを得た痩躯、青白く翳りを帯びた貴族的な容貌は、むしろ望ましかった。その細くしなやかな躯を彼の腕に招じ入れ、仰け反らせた首に牙を食い込ませるには最適な。その命を味わいながら、アイスブルーの瞳が断末魔に霞むのを見るのは、どんなに素晴らしいことだろう。
しかし、この街に居続けるためには、そうするわけにはいかない大きな理由があった。その纏っている黒い服の上等さや、酒場で友人達に見せる気前の良さは、この少年が彼の獲物となるべき生物ではないことを示していた。
彼は、その少年についてよく知っているというわけではなかった。街の若者達が呼んでいる「ジェイ」という通称以外は、地元の名家出身らしいという漠然とした知識しか無く、いささかの畏怖やかすかな侮蔑を込めてその名が囁かれる理由も知りはしなかった。恐らく実際は、その辺の事情―少年の生家にまつわる伝説や評判も、少なからず彼の耳には入っていたのだろうが、ゴシップ的な噂は彼の耳と耳の間を見事にすり抜け、少しも跡を留めなかった。
彼は、その少年が夕暮れ以降のジャクソン広場やカフェ・ドゥ・モンド、若者向けのクラブで、同じ年頃の少年達に声をかけているのを何度か目にしていた。それ自体はこの街の若者にはよくある姿で、何ら人目を惹くものではなかったが、ふんだんに金をばらまき、食事や酒、薬を一夜の友人に与えている姿は、少年達を見慣れているはずの彼にも一定の印象を残していた。
そしてその周囲にいる友人達の顔ぶれは、固定されることがなかった。少年は、街の若者のグループを渡り歩き、ひとしきり奢った後に蹴り出される、ということを繰り返して、飽きることがないようだった。結局のところ、誰と居ようとも少年はいつも独りだった。
彼は、惹かれるものを覚えれば覚える程、その少年との接触を避けようと努めた。地元の少年、しかもかなり裕福らしい少年を手にかけるわけにはいかなかった。この街で生活を続けようとするならば、それは厳しい追及の末の破滅を意味していた。
そしてまだ街を離れようとは思っていなかった彼は、強く自らに言い聞かせた。その細くしなやかな金髪が、血色を失い彫像と化した顔にかかる様を目にするわけにはいかない、その黒い服に包まれたほっそりとした肢体や、白い喉が描く見事なカーブのことを考えては駄目だと。
実際、その少年が見せる血と苦痛への嗜好は、少なからず彼を刺激し、苦しめていた。彼はこの少年が手に包帯を巻いた姿で、広場で仲間といるところを見たことがあった。その布の下では、切り開かれた親指が脈動し、血を流し続けているのを、彼の嗅覚は嗅ぎ取った。その香りは広場のマグノリアの花のそれと混ざり合い、一層甘く薫り高く、彼の食欲を揺さぶった。
自分で切ったという告白と、その行為の結果の詳細な説明は、仲間達を一層気味悪がらせただけだったが、彼は、この恵まれた身の上の少年の苦痛への渇望を、その魂の空虚さの一片を見た気がした。少年は、一切を奪われることを求めているように見えた。本人が気づいているかは別として。
彼はこの孤独な少年に、彼の血で満たされる生物の存在を教えたかった。その温かさが自分の飢えを、虚しさを一時的にせよ埋めることができると。この怪物の、長く虚ろな生を癒し、慰める力が彼にはあるのだと。しかしそれはできなかった。その時彼にできたのは、口内に唾が溢れるのを感じながら、広場を後にすることだけだった。彼は少年が孤独を深め、迷いをどこまでも深めていくのをただ眺めていた。
しかし幸か不幸か、彼らがお互いを認める機会はある時を境に増えていった。そして同時に、彼が空腹に苛まれる頻度も急速に上がっていった。いかなる偶然の成せる技か、彼が最適な獲物―家出少年や浮浪者に目星をつけ、声をかける機会を窺っていると、かなりの確率でその少年が現れ、その獲物に先に声をかけ、彼の獲物となるはずだった生物を、その目の前から連れ去ってしまうのだった。
狙いを定め、急降下する直前に獲物を奪われた猛禽類になった気がして、その度に彼は小さく溜息をついた。もちろん少年を非難するつもりはなかった。そんな権利を持ち合わせてはいなかった。そして、いかに空腹に悩まされようとも、きっと喜ぶべきなのだろうと思った。目をつけた美しい少年達が、彼の腕の中でその命を吸い尽くされることなく、あの少年に酒や食事、そして温かな風呂等を与えられ、安全に一晩を過ごすことが出来るのを。
（いかに人間を越える力を持っていようとも、彼には精神を読み取る力はなかった。そんな力があれば彼はこれほどまでに孤独ではなかったかもしれないが、逆にもっと以前に破滅していたかも知れなかった。いずれにせよ、彼にはセント・チャールズ通りの豪邸内での少年達の悲惨な最期を知りようもなかった）
この少年は、彼の魔の手から少年達の生命を救うべく、いと高き所より派遣された天使なのだろうか？彼がその名の通りの存在であったなら、そう信じることも出来ただろう。しかしあいにくと、そうではなかった。彼は考えを巡らせた。彼のような生き物の獲物の好みと、裕福な少年の遊び相手の好みの、この奇妙な一致は何を意味しているのだろうか？もちろん、彼の好みの傾向は、安全面の理由で説明づけられる物である。
それでは、少年が好んで浮浪者や家出少年を自宅に招じ入れる理由とは、どのようなものだろう？後腐れのないつきあいを望んでのことなのだろうか？彼の目に少年の純真な表情は、軽薄な恋よりは真摯な友情を切に求めているように映っていた。不如意な生活を送る哀れな人々に、恵みを垂れる喜びを求めているのだろうか？少年はそれほど信心深くも、慈善活動に興味があるようにも見えなかった。彼には、納得のいく答えを見つけることは出来なかった。
そしてその答えは、向こうから彼の元にやってきた。運良く少年が彼と同じ酒場には現れなかった晩、ようやく飢えを満たすことが出来た彼は、犠牲者の亡骸を沈めた河から帰ろうと踵を返し、目にした物に息が止まりそうになった。
そこには、あの少年が微笑みながら立っていた。両手を―何も手にしていない腕を歓迎するかのように広げ、月明かりの土手で、彼の帰りを待っている様だった。
いつから後をつけていたのだろう？殺害の現場を見られたのは疑いなかった。この少年をも殺さなければならないのだろうか？
彼の表情が不審と警戒に閉ざされて行くのに反比例して、少年の笑顔は明るく、輝きを増していくようだった。その笑みには、彼のことを知っているというかのような、同病相憐れむような色が見えた。しかしその理由を説明してはいなかった。
一体この少年は彼に何を求めているのだろう？同年代の仲間の死を目撃したであろう後で、何故自分の前に姿を見せるのか？さしあたって、復讐を為そうとしているようには見えなかった。その理解したような表情は彼を困惑させた。
彼は一つの可能性に思い当たった。それは彼の胸に衝撃を加えた。まさか、彼の仲間なのだろうか？長い間探し求めた血族だというのか？まさか―ジラーの子供なのか？年の頃や、姿形はその可能性を残しているように見えた。
いや違う、これは別人だった。彼自身が抱き上げ、そして捨て去った子供が、ここにいるはずはなかった。この街の、古い名家の子息として育っているはずは。彼は頭を振った。そうだ、自分はこの子供が、自ら切り裂いた手の傷を見たのだ。彼の血族ならば、ものの数秒で治るはずの傷が血を湧かせ続けるのを。彼が同類でないのは明らかだった。
彼は少年の横を通り過ぎようとした。お互い誰にも遭わなかったのだ。もし殺しの現場を目撃していたとしても、そして彼の正体を知っていようとも、この少年から周囲にその秘密が漏らされることはないだろう。不思議と、彼には確信があった。そしてそれは正しかった。
少年の立っている所まであと数歩にまで近づいた時、彼の鋭敏な鼻を異様な臭いが突いた。思わず彼は立ち止まった。その悪臭は、目の前の少年から立ち上っていた。ごく微かに、人間の鼻では感知できない程度ではあったが、確かに。
それは呼気から発散される、少年の深部からの臭いだった。それは暗く甘く、腐ったような香りを放っていた。彼にとってはお馴染みの香り―何故なら、彼自身も同じ香りを深部から漂わせているのだから―まごうことなくそれは、人間の血肉の香りだった。
急に立ち止まった彼を、少年は不思議そうに見上げていた。彼は我知らず、その目を覗き込んでしまった。何らかの説明を求めて。しかしそれは余計彼を困惑させただけだった。
その色味は澄んだ青緑色。しかしその奥は川底のように濁っていた。その表情のない目は、いかなる共感や理解も寄せ付けなかった。彼は目をそらした。この子供は自分の仲間ではない。それは確かだった。彼は生きた、美しい母親から生まれ、その腕に抱かれた人間の子供の筈だった。それなのに何故、自分と―少年達の血を命に替えることなしには生き延びることの出来ない夜の生き物と―同じ臭いの息をしているのだろう？
答えは一つしかないように思えたが、その答えに彼は自分の心が怯むのを感じた。この美しい少年、内気な笑みを持つ儚げな少年は、人間を食べているのだ。血か肉か、あるいは両方か。
だから彼と先を争うかのように、身寄りのない、安全に食べられる者達を誘っていたのだ。だから今、殺人者に対してこんなにも開けっぴろげな、歓迎の笑顔を見せているのだ。彼の疑問は、ようやく正解に達した。しかしそれは彼の心を些かも喜ばせなかった。
彼はこれまでにも、己を吸血鬼だと信じこんでいる狂人や、その真似事をする馬鹿を何人も見てきた。しかし、そのほとんどはひねくれたポーズや気まぐれなファッションに過ぎず、多少は実践に移していても、その血生臭さは表層的な段階に留まっていた。
誰もこのように、その深い箇所から血臭を漂わせたりはしていなかった。清潔で洗練された包みの中に、腐臭を放ち脈打つ赤黒い核を器用にくるみ込んではいなかった。彼が愛したジェシー―血に対して偏執的な情熱を見せたあの娘も、この少年に比べれば、いささか強迫的に見えただろう。別に不服があるわけではなかったが。
ことさらに見せつけるでもなく、自らを煽り立てる必要もなく、ごく自然に人間を餌としている人間を、彼は今まで見たことがなかった。このような存在を認めることを、彼の心の一部は激しく拒絶していた。己のような人外の存在が人を喰うことにも痛む心に、その存在は重すぎるといえた。
彼は一刻も早くこの生物から離れてしまいたかった。この神々しく野蛮な怪物の存在に、彼は耐えられなかった。彼は、ジェシーの幼稚な嗜虐癖を愛した。それは痛々しくも可愛らしいと言えた。だが、この少年の先鋭化したそれを愛することはできなかった。
彼は気を取り直したように足を速め、少年の横を通り過ぎた。彼は今宵誰にも遭ってはいないのだ。そう、誰にも。同じ年頃の少年達の血肉を糧にする、美しくも残忍な、天使の如き少年になど遭わなかったのだ。彼の愛を―己を魅了する者を殺さずにはおれない愛―その一片をを理解する少年になど。
そしてその正体がいかなる怪物であろうと、その社会的身分に変わりはなかった。少年達を原材料として醸造される、この少年の喉から迸る血の味が如何なるものだろうか―これこそは、素材にこだわり抜いた美酒の中の美酒というべきではないか？―などと、ぼんやりとも思い浮かべてはならなかった。
その横を無言で通り過ぎる彼に、少年が頭だけ振り向き何言かを呟いたようだったが、家路を急ぐ自身の靴音にかき消され、それを拾うことは出来なかった。少年から離れても、彼は後ろを振り向かなかった。彼の耳に少年の足音は、終に聞えなかった。
上階の我が家に帰り、シーツに潜り込んだ彼は、頭の中から少年を閉め出そうと努力した。暗闇に立ちつくす眩い姿も、共感の笑顔も、懐かしく甘い香りも全て。そしてそれは、大方成功した。
その夜の後も少年を目にすることがあったが、平生と変わったところはなく、二人の目があっても何の反応も示すことはなかった。少年はいつまでも独りだった。そして彼も。
そしてその後、彼自身がウォレスとの遭遇を経て、急ぎこの街を去るという生活の変化に追われたため、これまで、この少年との一件を意識の上に上せることはほとんどなかった。今、この時、この夜までは。闇に閉ざされた出店で、彼は記憶を反芻した。
結局、あの体験は何だったのだろう？あの少年は、彼の脅威となりうるのだろうか？ウォレスの死を待つだけなら、十年と待たずに彼はあの街に帰れるだろう。しかしその頃にはあの少年は青年に成長し、人生の最盛期を迎えているに違いないのだ。
確かに、彼と少年は安全な獲物を巡っての競合相手ではあった。しかし、彼は自分があの少年を敵とは捉えていないことに気がついた。少なくとも、彼を追い立てたウォレス程には。
むしろ、あの街の若者達に対する生殺与奪の権を直接譲り渡した、自分の正統な後継者の様に感じていることに、我ながら苦笑した。もちろん、彼ら二人のどちらも、そのようなものは持っているはずがなかった。
怪物の彼が街を去っても、若者達の受難は続くことだろう。貪婪な若き支配者の下。しかし、いつの時代もそうなのだ。長く暮らした彼は知っていた。絶えず人々を運び入れる誉れある観光地にして、文字通り人間を食い物にする娯楽と犯罪に満ちた街に。
若者達はやって来て、酔いどれて、そしていなくなってしまう。そして誰も真に気に留めたりはしないのだ。ふらりとやってきた観光客や浮浪者の行方など。あの街の精神―偉大なる安逸と無関心の奇妙な混合を、彼は理解していた。そして愛していた。
故郷の心配を棚上げにした彼は、売れ残りの薔薇を集めながらもう一つの懸念―あの少年のことを思った。あの夜、彼はその深い孤独を知りながら、少年の仲間となることを拒んで逃げ出した。今にして思えば、自分の前に姿を見せるのは、随分勇気の要ることだったろうに。同じ殺人者にすら拒絶され、少年はどんなに失望したことだろう。彼は胸に痛みを覚えた。
しかし、考えてみてもやはり、少年の孤独を満たす役が自分の任であるとは思えなかった。同じく人間の血肉を必要とする者同士であっても、彼と少年の魂は遠く隔たっていた。彼に少年の残虐さへの欲求が理解できないように、少年には彼の殺しの度の苦痛が理解できないだろう。
手にした萎れた薔薇を、今夜は姿を見せない月にかざした彼は、心の中で薔薇を少年に捧げ、いずれ真に少年を理解する仲間が現れ、その孤独が癒される日が来ることを祈りたかった。しかしその仲間が、彼や少年に匹敵する殺人者であろうことを思うと、それもためらわれた。そして、ふと時間を思い出すと薔薇を片づけ車に乗り込み、勤務先のバーに向かった。
その祈りは、彼の逡巡にも、今夜の悪天候にも関わらず聞き届けられた。月は十年の歳月をかけてその祈りを叶え、遠い牢獄から少年に運命の恋人を運んだが、それはこの、心優しい嘆願者が知るべきことではなかった。
（了）
後書き△
ポピーＺが誇る、「ニューオーリンズを根城にする孤独な美少年キラー（文字通り）」の二人を絡めてみました。
ＥＣ初読リアルタイムでの「このジェイっての、十年前ならクリッシーの萌えツボどストライクじゃね？」や、「十代後半で殺人始めたなら、場所も時期も獲物の好みも、クリッシーの狩りとかぶってるって！この子、クリッシーのご飯減らしてるよ！」といった疑問や心の雄叫びが書かせた話です。
人間のジェイより、人外のクリッシーに殺される方が、まだ犠牲者の味わう苦痛が少なくてすむ、というのが皮肉というか何というか。そこら辺の二人の差異を書きたくも有り。
そして、影のある美少年愛好家のクリッシーなら、評判とか度外視して、純粋にジェイたんの見た目と根暗オーラに萌えてくれると思うのですがどうか。あんまり人の話とか噂を聞いてない気がするし。…当方、クリッシーの好みを「黒まとってて破滅的な性向の美少年」だと思ってますが違いますかね。
ジェイ萌えな年上男を書きたかったというのも大きかったり。オリキャラ作るよりはクリッシー拝借。つかＥＣ作中で、ジェイ萌えの年上男がアンドリューしかいない事実に我ややしょんぼり。
「ジェイたん、キモいけど萌え！」な、失礼かつコアな隠れフォロワーとかがいてもバチはあたらないと思うのですよ。つーかひっそりといるものだと信じてます。勝手に。はい、当方「キモがられる総受け愛好家」です。
2006年6月4日