その日、わたしとジェイは机をはさんでゲームをしていた。白と黒の駒を戦わせて互いの王の命を狙う剣呑なゲームを。ジェイの部屋にあった見事なチェスセット（ジェイの浴室を思わせるそれは、これまでインテリアとしてしか用をなしていなかったという）に見とれていたわたしを、ジェイが誘って始まったゲームだった。といってもわたしもジェイも大した腕前ではなく、ジェイを先手にお互い駒を取ったり取られたりの低レベルの戦いを盤上で繰り広げていた。
大理石の冷たく快い感触に、半ば夢心地で次の手を考えていると、ジェイは突然口を開いた。
「この世界は赤の王の夢と思ったことはない？」
突然の発言の意味を解しかねて眉をあげたわたしに、ジェイはわたしが手にしている駒を指さして付け足した。
「君の国のおとぎ話だよ。鏡の国に入り込んだ女の子のお話さ」
わたしは、幼いころに読んだナンセンスの塊を思い出した。森の中で眠っている赤の王が主人公の夢を見ているらしく、奴の目が覚めたら主人公は消えてしまうとかいった話だった気がする。
「ああ、牢獄にいる時に何度も願ったよ。もしそうなら、とっとと覚めてくれとね」
わたしは吐き捨てるように言った。確かにそれは事実だった。そして続けた。
「それ以上に自分の獲物に対してそう思った方かな。わたしの中の何かが目覚めたから彼らは消えてしまったんだと」
そう、わたしは凶暴な赤の王を飼っているようなものだった。
「そうなんだ。僕はずっと思っていたよ。それでもかまわないって。いつ彼が目を覚まして僕が消えてしまっても、そんなことはどうでもいいって」
彼の虚無的な告白に、わたしは軽く眉をあげて尋ねた。
「今でもそう思っているのか？」
ジェイは軽く首を振った。
「いや、今は覚めてほしくないと思ってる。王にはずっと眠っていてほしいと願っているんだ」
「なんでそうなったんだ？」
わかっているような気もしたが、わたしは尋ねた。
「もちろん君がいるからだよ、アンドリュー」
ジェイはまっすぐにわたしを見つめた。
「君がいるなら、今この瞬間が夢でもいいから続いてほしいと思えるんだ」
彼の率直な告白に、わたしは頬に熱が集まるのを感じた。照れ隠しに、わたしはチェス盤越しにジェイに口づけした。それは甘く痺れるほどの口づけだった。もはや勝負などどうでもよかった。この瞬間がいつまでも続きさえすれば。そのためにも、赤の王には、是非とも草の上でいびきをかき続けてもらいたいものだ。
（了）
素直クールなジェイを書きたくなりまして。あと個人的にチェスと『鏡の国のアリス』にはまっているのもあり、こんな話になりました。
『鏡の国のアリス』末尾の「夢ならずして何、この生は」と、バウハウスの「Exquisite Corpse」の"Life is but a dream"は通じるものがあると思います。無理やりだなあ。
2009年3月12日