ある穏やかな秋の午後、ジェイが恋人の行方に見当をつけて探索に向かった時、アンドリューは書斎のソファの上でうたた寝をしていた。その顔面に、眼鏡をかけたままの姿で。
その光景はよくあることだったが、恋人を発見したジェイをいつも不思議がらせていた。あんな細い針金と、薄いガラスで出来た品物を着けたままぐっすりと寝入っていて、寝返りなどで壊れてしまったりはしないのだろうか？
ジェイ自身は生活に十分な視力を裸眼に備えており、眼鏡を装備する者の生活についての知識は乏しかった。そのため、眼鏡を常用する者の中には、それを装着したまま、破壊することなく器用に就寝する者も存在することを彼は知らなかった。
何度も目にしていても、ジェイは眼前の光景に落ち着かない気持ちが払えなかった。彼には、アンドリューの眼鏡が壊れるのが心配だった。生活に不便な思いをするだろうし、それ以上に厄介なことになりかねなかった。彼の家には眼鏡はもちろん存在せず、この一つしかない眼鏡が壊れてしまったら、新しい眼鏡を買わなくてはいけないのだ。
彼はこれまでの人生で、眼鏡を購入するという経験をしたことがなかった。そして未知の出来事というものは、何であれ彼を怖じ気づかせた。挑戦というのは、彼にとってできれば回避したい事態と同義であった。
彼は懸命に、眼鏡を購入するという馴染みのないシーンを頭の中に思い描いた。もしかしたら、作ってもらう当人である、アンドリューの身分を証明する物が必要かもしれない。ことによったら、視力を判定するための医師の診断や、それに付随する書類などが諸々入り用かもしれない。そして、彼の恋人は堂々と身分を明かせるような人物ではないのだ。
実際にそのような状況になってしまったとしても、頭の回転が速く、能弁なアンドリューが上手く切り抜けてくれるだろうが、そもそもそのような事態に陥らないのが最善なのには間違いないと、ジェイは長考の末に判断した。
だから恋人の所持品を奪うようであっても、この行動は正しいのだと己に言い聞かせながら、彼は静かな寝息を立てる恋人の頭に屈み込むと、そっと耳にかけられていたアクセサリーを持ち上げ、その眠っている顔から取り外した。
指が顔に微かに触れ、アンドリューを起こしてしまったかもしれないと緊張したが、変わらない寝息に、それは杞憂だったと彼は溜息をついた。
そして、今や何も着けていない恋人の寝顔を、改めて見下ろした。思えば、数日互いの内心を打明け合ってきた恋人の素顔を、まじまじと見られるのはこれが初めてのことだった。彼は胸の奥のリズムが速まるのを感じた。
その目を覆っている厚いレンズを除くと、心なしか恋人の寝顔は少し穏やかに見えた。もしかしたら、平生の表情を彩る邪悪さも、レンズの歪みがもたらす光線の具合によるのかもしれない。その変化に、こんな小さな装飾品で人の顔は大きく変わるのだと、ジェイは感嘆すら覚える気持ちだった。
ならば、これを着ければ自分も変われるのだろうか？好奇心を覚えたジェイは、試しにこの眼鏡を、かけてみたいと思った。こんなことを思うのは初めてだった。これもアンドリューが開いてくれた新たな世界かもしれなかった。これもまた、彼と何かを分かち合う行為の一部になり得るかもしれない。それは、恋人が常に装着している、ほとんどその顔の一部なのだから。
持ち主が起きている間は不便を強いることになるから無理だろうが、熟睡している今のうちなら構わないだろうと、都合良く解釈した彼は、恐る恐る、細い金色の針金を耳の上にかけ、鼻当ての位置を合わせ、目を開いた。
アンドリューが見ている世界は、彼の目にはどのように映るのだろうか？
ぐにゃりと、音も熱もなく溶け出した世界に、彼は一歩も身動きせずに浮遊感を味わった。恋人が常に目にしているはずの光景は、吐き気を催すような歪みでもって彼を迎えた。片眼をウォッカの空き瓶の底に押し当てて覗いたような、不明瞭で、無意味にサイケデリックな、それでいて無色透明な視界。その光景にジェイは目の奥から頭の中にかけて激しい苦痛を覚え、即座に眼鏡を顔から外してしまった。
すぐに世界は元に戻ったが、完全にではなかった。眼鏡をサイドテーブルに置いてからも、未だに世界の歪みが彼の周囲に残留して、足を突っ込んで即座に逃げ出した彼を嘲笑っているかのような感覚に、彼はしばらく喉の奥に呻きをながら、目を固く閉じて立ちつくしていた。
だから、自分から眼鏡を奪った彼の一連の行動に、寝ぼけた頭に疑問符を浮かべながら薄目で見上げている恋人の様子に、気づくはずもなかった。
ソファから起きあがり、眼鏡の返還を要求されるまで。
（了）
眼鏡は顔の一部です〜♪と歌いつつ。よくある出来事、「他人の眼鏡を着けてみたら視界おかしくて頭イテェ」と「眼鏡かけない人が、眼鏡かけたまま寝る人材に驚嘆」を、この二人でやってみました。アンドリューは最強殺人鬼ながら「近視」という、微妙な弱点を所持してますが、ジェイは視力よさげで羨ましいことです。
アンドリューの眼鏡は伊達ではないので、作中の場面では大概アンドリューは眼鏡をかけていると思われますが、じゃあラストの、全裸でルークと対峙しているシーンもか…。全裸に眼鏡。うーんマニアック。何のマニア対象かは謎ですが。個人的には靴下も履いてたら最強なのですが、やはり何のマニア対象なのやら。
それにしても、他人から奪った眼鏡がちょうどぴったりってどんな強運ですかアンドリュー。
2006年10月18日