午後もかなり過ぎた頃、ジェイはいつになく爽やかな気分で目覚めた。ロイヤルストリートの邸宅を相続してから数ヶ月、彼は独り暮らしの快適さ、自由さを謳歌していた。
広い豪邸の清潔さを一人で維持するのは骨が折れる仕事であったが、家族という他人と同居しなくてすむことを考えれば安い物だった。それになにより、誰に気兼ねすることなく友人を招待できるのが彼には大きかった。しかる後に行う友の処分も、以前よりずっと楽にできるのだし。
そして今日は友達が家に滞在していた。昨夜招待した友「 」が。それは彼にとっては珍しいことだった。彼の友はいつも一晩でいなくなってしまうのだから。自分から立ち去るか、ジェイによってこの世から追い出されるかは不問として。
だがしかし、昨夜ついにジェイは友を自分の元に引き留める事ができたのだ。或いは、その方法を見出したのだ。友とやり直す方法を。何故もっと早く気がつかなかったのだろう？彼は悔やんだ。彼はもう、ずいぶんと多くの若者達との友情を無駄にしてきてしまった。
しかし過ぎたことを振り返っても仕方がない。これからの友との付き合いに生かせればいいのだ。彼はそう思うことにした。そう、今の彼は幸せだった。本当に心の底から。
彼は軽い足取りで、友の元に向かっていった。客用の寝室ではなく、台所へ。そして、眠る友に声をかけるように冷蔵庫の扉を開け、大きな皿を取り出した。その上には、ある程度均一の厚さにスライスされた肉が並べられていた。
それはつやつやとして鮮やかに赤く美しく、店で売っている上等な肉にも負けないように思えた。実際、それは彼にとってはかけがえのない肉なのだ。下ごしらえされたそれは、他ならぬ彼の友「 」の肉なのだから。
自分の不器用さと、肉の部位に関する知識の欠如により、上腕の肉をこの皿一枚分しか採取することができなかったのが残念だった。しかし例え熟練の肉屋であろうと、人間の肉の部位の知識などあるものだろうか？彼にはこれから学ぶべき事が多くあるようだった。
彼はラップを外すとその臭いを吸い込んだ。まだ新鮮な肉の香り。一説に、その屠殺の手際が悪くその死に当って苦痛を味わった畜獣の肉はひどい臭いがするという。そうすると、彼のこの肉はどうなのだろう？彼の鼻には悪臭とは感じられなかった。
実際には、激しい苦痛を味わって死に赴いた友の肉ではあったのだが。あるいは、あの説は人間の肉には適用できないのかもしれなかった。それならそれで、彼にはありがたいことだった。これで心おきなく拷問と調理が両立できるというものだ。
友の肉の調理に望んで、彼の鼓動は静かに、しかし確実に高まっていた。これまで数年に渡り、何人もの若者を愛のために屠ってきた彼であったが、その肉を調理して味わうというのは初めての試みだった。彼は今新たな段階に足を踏み入れることを感じ、厳粛な気分になった。
これまでにもそれに近いこと―切り刻まれた若者の残骸に噛みついたり、呑み込んだり、裂かれた腹からはみ出たつるつるした腸を口内に頬張ったりしたことはあったが、衝動的なその行為と、今行う冷静な調理というのは同じ「食事」であっても遠く隔たっていた。火を用いることもあり、自分は人喰いの獣から、人喰いの人になったのだとジェイは思った。
ジェイは皿に並ぶ「 」の肉に塩胡椒と少々のスパイスのミックスを振りかけると、薄く油を引いて熱したフライパンに次々と乗せて焼き始めた。たちまち上がる油が弾ける音、熱気に乗った焼けた肉の匂いが食欲を刺激する。
単純きわまりない料理法ではあるが、肉の風味を活かした立派なご馳走だった。今現在の彼の料理の腕では、それ以上のものも期待することはできなかった。友の肉を調理することを思いつくまで、彼はどちらかと言えば食に無頓着な方だった。
だから、材料が鶏肉ならチキンソテー、豚肉ならポークソテーと呼ばれるその料理を、材料が人肉の場合は何と呼ぶか彼には判らなかった。一体誰が知っているだろう？仕方なく、今日は「 」が材料なので「 」ソテーと呼ぶことにした。心の中で。
十分に焼け、香ばしい匂いを放つ肉を、付け合わせの野菜と共に皿に並べる。これが彼と「 」が共同でこしらえた、彼らの友情の証とも言うべき昼食だった。作るのも食べるのもジェイで、材料が「 」であるのを、共同で作ったと言えるならば。
ジェイは上機嫌でその料理をキッチンのテーブルに配膳したが、ぽつんと置かれた一つの皿は、彼の目にひどく寂しい光景に映った。やはり、この場に友などいないのだ。「 」は遠くへ行ってしまった。彼は独りだった。彼は足下から背中まで震えが走るのを感じた。
いけない。このままではいつもの発作が、殺人欲求の噴出が起こりそうだった。折角「 」が身を以て鎮めてくれていたのに、何故自分はこうも抑えが効かないのだろう？急いで代りとなる物を持ってこなければ。彼の決断は早かった。
彼は寝室に走ると、タンスから一束の写真を掴んでキッチンに舞い戻ってきた。昨夜撮った「 」の写真だった。美しい、痩せた黒髪の少年が映っている。そしてその腕の内側に、幾重にも刻まれた真紅の線もはっきりと映っていた。
その手は手錠に繋がれてはいない。これはまだ、彼が「 」を拷問にかける前の写真だ。この生々しい傷は、「 」の自前のものだった。「 」は、己の抱える苦痛を傷に変換しなければ表現できない、内気な少年であった。
彼はジェイに、彼からその苦痛を舐め取ってくれることを求めていたようだった。ジェイはその通りにした。そして吸い上げた苦痛を、十倍以上にして彼に返した。しかしそれはその赤い刻印に優しく舌を這わせた後のこと、「 」の痛みを切ない快楽に変換して与えた後のことだった。哀しげな少年に、この苦しみの多い世界での最後の快楽を。
「 」の願いを受けるまでもなく、ジェイは「 」の苦しみの表現に心奪われていた。その白い肌にびっしりと刻まれた直線的な飾りは、いたくジェイを魅了した。だから、拷問もその美しさを損なわないように、慎重に執り行われたのだ。
その傷の美しさを乱さないよう、ジェイはその傷の上を切りつけた。師の見事な手本をなぞる、熱心な弟子のように何度も何度も何度も。館の洗面所に長いこと放置されていた、錆び付いた剃刀で以て。元々そう深くはなかった傷の中に潜り込み、肉の中を削り、線を上書きし続けたのだ。
片手と足を拘束された「 」が叫び、吐き、泣き喚き、やがて静かになり、動かなくなるまで。細い手首をなまくらな刃で抉り続け、ついに橈骨が見え、それに守られた動脈を傷つけてしまうまで。あるいは尺骨だったかもしれないが。医学書も無しに詳しいことは判らなかった。
その頃には、全てを受け入れるように頭をがっくりとうなだれていた「 」の姿に、ジェイはやはりこれが「 」の望みだったのだと確信した。手首を折り曲げても止めようのない、圧倒的な出血多量での急速な死が。彼は「 」の願いを叶えたのだ。友の望みを手助けできて彼は嬉しかった。
うっかりと血飛沫を浴びたジェイは、勢いよく血を吹き出す手首にもったいなさを覚え、試しに口を押し当てて赤い奔流を飲んでみたが、すぐに気分が悪くなって吐き出してしまった。神の子の血は問題なく飲める彼であるのだが、なかなか現実は聖餐式やホラー映画のようには行かないものだった。
諦めるのはまだ早い、血が駄目なら肉はどうだろうか？その考えが浮かんだのは、彼がやったにしては速やかに青白い死を迎えた、腕以外は無傷な「 」を解体している間のことだった。「 」に身体は無駄な脂肪が無く、固い筋肉が覆ってもおらず、美味しそうだった。
ほっそりとしてはいるが痩せこけてはいない。まとっている影にも関わらず、その全身はおおむね豊かさ、健康さで満たされていた（傷だらけの腕以外）。「 」が人生に感じていた苦痛とは別に、その生は恵まれたものであったようだ。食べても問題は無いだろうとジェイは思った。ＢＳＥが問題視される以前の時代のことであった。
そう思って見ると、これまで作業としか思えなかった死体の処理に、新たな魅力が生じるようだった。丁寧に肉を骨から切り離し、臓物を種類別に分け、どれが食べられそうか検分するのは、思いの外楽しい仕事だった。同時に自分の調理に対する知識の無さを痛感させ、友の死を無駄にしないためにも勉強をしようという活力を、彼に与えてくれた。
そう、彼はこの肉を食べなくてはならないのだ。そして「 」と一つにならなくては。そうでなければ、何のために「 」を殺したのか判らなくなってしまう。まとわりついている孤独の亡霊に怖じ気づいている場合ではなかった。
それでも今の彼には、もう少しの自己欺瞞が必要だった。今この時、自分が独りではないと感じさせてくれる何かが。解体の過程を写した写真から顔を上げると、彼は再び冷蔵庫に向かって歩いた。
ジェイは、ボールの中でミルクに漬けられている「 」の赤黒く大きな肝臓（ジェイはそれ以外のレバーの下ごしらえのやり方を知らなかった）ではなく、冷凍庫から大きな塊、ビニール袋に厳重に包まれた大きなメロンの様な物を取りだした。蜘蛛の巣のように霜がけぶり始めたその塊を大事そうに抱え、ジェイはそれをテーブルに降ろした。ジェイの席の向かい側、昨夜生きている「 」が座って酒を呷っていた席に。
袋の縛めを解き、丁寧にその中身を取り出す。黒い髪は少し霜が付き始めていた。しかしまだ、その芯から凍っているわけではなさそうだった。昨晩入れたばかりなのだから。萎びた瞼と半開きの縮んだ唇を持った青白いそれは、愛すべき「 」の生首だった。
「 」を己の向かい側に据えて自分も食事のための席に着くと、ジェイは自分が、愛する人と食事をしている幸せな恋人であるように感じられた。いまだかつて、彼はそのような存在であったことはなかったが。
いつの日か、本当にそうなれる日が来るのだろうか？その相手となるのはどのような人物なのだろう？彼には想像もつかなかった。しかし、そのままごとのようなこの状況にも、いくらかの慰めを得ることはできた。それは昨夜の性の享楽よりも一層、「 」との親密さを感じさせてくれた。
食も性も、他者や異物を身体に受け入れ、柔らかな粘膜で味わうという、儚くも無謀な営みであることに何ら変わりはない。それならば、互いに消耗して得る所のない不毛な性の共有よりは、一方が他方にその命を以て力を付与する食の方がより献身的で、愛の行為と呼ぶに相応しいのではないだろうか？これは愛を奪う者の傲慢な考えだろうか？
ジェイは当座の恋人、自分に身を捧げてくれた「 」に微笑みかけた。今この時、「 」は自分の物なのだ。そしてずっと、ずっと。そして少し冷めてしまったが、ジェイは彼が材料からこだわったその料理を口にした。少し火を通しすぎたためか肉は固く、彼は呑み込むためにしばらく噛んでいなければならなかった。
しかし味付けは申し分なかった。塩・胡椒とスパイスが肉の臭みを消しながら、かつその風味までは損なってはいない。噛む程に「 」の肉の味わいが口の中に広がった。脂がのってほんのりと甘く、塩味によって肉汁の旨味が引き出された香ばしい肉の味が。「 」は素晴らしかった。「 」は美味しかった。
気がつくと、ジェイはそれなりに厚さのある肉を数枚、既に平らげてしまっていた。今日までジェイは自分を小食だと思っていたのだが、友の肉は彼を健啖家にしていた。とはいえ消化力までが急に発達するとは思えず、しばらくは胃の重さに苦しむだろうと思った。
それでも構わなかった。それすらも「 」の存在を身体で感じるよすがとなるだろう。ジェイは胃袋の中に「 」の存在を、その重さを感じたかった。その繋がりの感覚も肉が消化されれば、室温の霜の様に消えてしまうのは判っていた。
しかしその頃には、「 」の肉はジェイの臓腑の働きにより分解・吸収され、その身体の細胞となるべく分配されるのを待つようになるのだ。そして数日もすれば、ジェイの身体の中のそこかしこに「 」は存在することになるだろう。
ジェイはその日が待ち遠しくて仕方がなかった。そうなれば、これまでになく彼は自分を、その身体を愛せるようになるはずだった。自分を愛することが即ち、自分の中の「 」を愛することになるのだ。
愛する者を取り込んで初めて、自分の身体はそれに相応しくなれると、ジェイは信じていた。なぜならこれまでの人生で、誰もそのままの彼を愛しはしなかったのだから。誰も彼が、自他を問わず愛に値する存在であると教えてはくれなかった。
それでも彼はもう成人したのだから、自分でその方法を見つけなくてはならなかった。愛の薄い前半生に責任を押しつけて、いつまでも拗ねているわけにはいかないのだ。そして今、彼は手探りながら、その確実な方法を見出したのだ。その独創的な方法を。
友を立ち去らせることなく、永遠に自分と一緒にいさせることができ、かつ自分をこよなく愛することができるようになるという、画期的な方法で。本当に、何故今まで気がつかなかったのだろう！こんなに幸せになれるというのに。最後の肉を咀嚼しながら、ジェイは達成感半ば、後悔半ばという心境であった。
肉を平らげたジェイは、付け合わせの野菜をフォークでつつきながらぼんやりと考え事をしはじめた。食欲が無くなったわけではないが、顎が疲れてきていたので休憩も兼ねて。自分は、愛する「 」を食べることで、己を愛することができると信じるようになった。
逆に考えれば、自分を愛そうとするならば、愛するものを食さなければならないのではないか？何故なら、自分とは自分の身体であり、その身体は食する物から出来ているのだから。愛するものを食すことは、自分の身体をその愛するものに変えることでもあった。
ジェイはフォークに刺した野菜を数枚口に放り込んですり潰し、その青臭さを味わった。彼は「 」程ではないにしても、この鮮やかな青虫色をした葉や茎を敬愛していた。どこまでも青々として、真っ直ぐに水や養分を吸い上げる、貪欲な物言わぬクローン生物達。彼らが自分の身体に取り込まれ、その細胞に変換されることにも異論はなかった。
彼はこれまで、少しでも警戒を覚える物、不快さを感じる物を口にしたことはなかった。前の人生での小食さも、それが原因であった。それは彼には当然のことだった。魅力的でない物、尊敬できない物に自分を形作って欲しくはなかったからだ。自分が愛に値するとは信じていなくとも、それは最低限のプライドの成せるわざだった。
自分にもその正体や来歴が分からない物、不信しか抱いていない物、むしろ憎悪や軽蔑しか抱いていない物を口にして、その身体に取り込んで、どうしてそれらから作られる身体を、自分自身を愛せるのだろう？彼は不思議に思った。
未知の物を受け入れられないその偏狭さは、彼の痩身を作る役にしか立たなかったが、それを少し転がして「愛するものを食べる」とすれば、自分を愛する手段になることを、彼はこの一度の食事から学んでいた。彼にとっては有意義な発想の転換と言うべきだった。
豪勢な食事を終えるとジェイは、流しで簡単に皿を洗い、食器棚にしまった。霜が解けた「 」の生首も、手早く包み直して冷凍庫に入れた。この地の暑い昼間に、長時間常温に出していたら傷んでしまうのは確実だった。
立ち上がると予想通り、胃が張って重くなっているのを感じていた。これまでおざなりな仕事しか与えられていなかった胃に、いきなり厚い肉はオーバーワークというものだ。鳩尾に軽い痛みすら覚えたジェイは、ソファに横になった。全身の血が胃に集合してフルに稼働しているのが、腹の肉を透かして見える様だった。この怠惰な主人に似ず、彼の臓器達は勤勉だった。
彼は目を閉じた。これも自分と「 」が一つになるために必要なプロセスなのだ。腹がこなれる頃には、「 」は自分の中にあるはずだ。そして永遠に離れることはない。そう信じることだけが、今の彼のよりどころと言ってよかった。しかしそう信じていても、「 」が傍にいないのはひどく寂しいことだった。
ジェイは震える自分の身体に、己が腕を巻き付けて丸くなった。彼は自分自身を抱きしめ続けた。同時に「 」を抱きしめ、また「 」に抱かれていた。彼はしばらくそうしていた。自分の体温に「 」の温かさを感じ、独りではないと感じられるまで。
（了）
ジェイが初めて人の肉を食べる状況を想像したら、こうなりました。またしても、犠牲者名空欄の名前変換小説風味でお届けしております。
しかし今回は文字通り喰われる役であり、前回以上に自分の名前入れたら勇者ですなぁ。「ジェイたんに愛されたい！」とか「ジェイたんに喰われたい！」と言う方なら止めはしませんが。
前回のアンドリュー話の、夕飯がビールオンリーもひどいですが、今回の遅い朝食＆昼ご飯にいきなり肉、もかなりヘヴィであり何となく彼らの胃に謝罪。これもキャラ虐待に含まれますかね。友の肉に消化不良起こすジェイたん。うーん。
でもそれは日本人の感覚で、欧米人ならそこまで大変じゃないかも…？それも偏見か。あーあとレバーは生姜汁に漬けても美味しいよね。人間のは知らんけど。
最後に一言。絶対に真似しないで下さい。できるか。
2006年7月22日