その青年は、古い、うち捨てられた豪邸の門前に立っていた。錆びた門ではパイナップルに似た錬鉄飾りが、久方ぶりの訪問者に驚く様に見下ろしていた。彼はそこからしばらく中を眺めていたが、意を決したように敷地の中に入っていった。
かつて厳重に張られていたセキュリティシステムも、解除されて久しい時が経っていた。新たに契約し、設定し直さなければ、と彼は思った。今なら指紋認証が良いだろうか。
中庭を通って邸宅に着き、父親から預かった鍵で重い玄関扉を開けると、館は埃まみれの荘厳さで新たな主人を迎え入れた。その邸宅の居間は午後の傾いた日差しの中で、ややくすんだ緋色と鈍い金の栄光を、精一杯誇示しようとしていた。
ここはフレンチ・クォーターの中心地近く、ロイヤルストリートの一角。かつて、ジェイ・バーンが住んでいた屋敷だった。十年前の冬、傾いた小屋から白骨化した姿で発見された富豪の青年の。
彼自身は、父の従兄弟であるこの青年と、さして面識があるわけではなかった。十数年前のことだったか、一度、この青年はふらりと彼の家にやって来て、住民への挨拶もそこそこに書斎に入って暫くしてから、また帰っていったことがあった。
父は、従兄弟が変わっているのは今に始まったことではない、と前置きしながらも、一体あいつは何をしに来たのかと、不審の念をこぼしていた。この件だけでなく、この親戚は父の頭痛の種のようだった。
彼はその青年と一言の言葉も交わしたわけではなかったが、金色の柔らかな髪をなびかせて、彼の家を自宅の様に闊歩する（実際、数年前までそこはその青年の家だったのだが）背の高い姿は、その冷たい美しさにより、幼い彼に強い印象を残していた。
その遺体の発見現場となった小屋は、既に潰されて跡形もなかった。そこで起こった忌まわしい事件―未曾有の連続猟奇殺人事件の、最悪の屠殺場であったが故に。しかし今やその現場には草が生い茂り、その来歴を野蛮な緑で塗りつぶしていた。
彼は、この現場に石碑でも建てればいいのではないかと思ったが、彼の父は無駄な金は一切使わない性質の持ち主だった。彼ならきっとこうするだろう。白い大理石で天使とも女神ともつかない彫像を造り、その足下に古めかしい文体でこう記すのだ。「何の為に産まれたのか？」と。
その碑文は一見、恵まれた身分に生まれながら食人鬼となった青年―彼自身に力は無くとも、その金の力で芸術や学問の発展を援助し、名を成すこともできただろうに―に向けられた様でいて、その裏ではその犠牲となった少年達に向けられてもいた。殺人鬼の胃袋に収まるために生まれた、食用ウサギの様に罪のない少年達へ。
少し考えて彼は、我ながらセンスの無い考えだと頭を振ってひとりごちた。ジェイが、殺人鬼が取り持った縁によって運ばれた呪われた富や、生まれ故郷の命の全て―大地、河川も含め―を毒して得た財産を、下肥のように振り蒔くことで満足できる男ならば、このような生き方を選ぶはずもなかったのだ。殺戮で得た金は殺戮に消費すべきだというのは、彼にはある意味筋が通っているように見えた。
少年達にとっても、その家庭に収まりきれない奔放な彼らにとって、彼らをうんざりさせた家族に看取られての緩慢な死や、花に囲まれた棺に取り縋る家族や友人といった、飽き飽きする程に型通りの行く末より、彼らを何らかの点で魅了した男にその血肉と賞味され、その胃の腑を棺桶とする方が望ましくないと、一体誰に判るだろう？
きっと、殺人鬼になるために生を受ける人間も、食肉になるために生まれる人間も、どちらもあり得べき姿であり、彼らの生得権なのだろう。他人がとやかく言うべき筋合いはなかった。納得した思いで彼は草むらから頭を上げて、館に目を向けた。
館の取り壊しも幾度も嘆願され、計画されたが、個人の財産に手を出せるほどの効力は無かった。そして今、親戚の懸念や、周囲の制止を振り切って、彼はこの館を自分の物としたのだ。二十年前からの十年間、数知れない少年達が生きて出てこられなかった館を。
この敷地内で変わり果てた親戚を発見したのは、まだ幼い彼だった。その経緯を説明するには、先に、何故彼がジェイの家を訪れたかを説明しなければならない。
十年前の年が明けた頃、新年を祝う親類の集いを計画した彼の父は、この変わり者の親戚にも一応声は懸けておこうと、電話をかけたのだった。そっけなく断られるのが恒例となっていたが、それでも「一応誘いはした」という形式が必要なのだと、父は彼に説明したことがあった。それが親戚づきあいというものなのだと。
しかし、その年に限って、誘いの電話が受け取られることはなかった。日を変え、時間を変えても、その家に電話に出る者はなかった。これまでにも、昼まで寝ていたとかで電話に出ないことは度々あったが、この徹底的な無反応は少し父を不安にさせたようだった。
ジェイ個人を心配してというよりは、ジェイの母が病に倒れる前に、奇矯な息子に困難が生じた時の面倒を見るように、彼の父に依頼していたことが大きかった。何より、バーン家の財産も含めた、莫大な資産の行方はまだ彼女が握っていたのだから。
彼女の息子は長く独りで暮らしており、怪我や病気による最悪の事態も予想された。彼の父は、それならそれで厄介者が消えてくれてありがたい、などと軽口を叩いたが、いくらなんでも、こんな結末を予想していたわけではなさそうだった。
相談の末、事前にセキュリティ会社に連絡を入れた上で、彼の家族はその家に足を踏み入れることとなった。何事も無いようなら、家族で新年の挨拶に来たことにすれば良い。変わり者に振り回されるこの事態に、両親はあまり気が進まない様だったが、その時の彼はあの美しい青年にまた会えることを単純に喜んでいた。
インターホンを押しても、反応は全くなかった。何度押しても同じことだった。警備システムをセキュリティ会社の者に解除してもらって入った館にも、人の気配は不気味なほどに無く、家具に積もる埃は、その不在の永さをほのめかしていた。
捜索願を出そうかと途方に暮れる両親を尻目に、幼い彼は中庭に遊びに出ていた。広い庭を駆けめぐり、彫像に挨拶して回った彼は、粗末な小屋に目を留めた。黒い窓に固く閉ざされているそれは、秘密の基地の様に魅惑的だった。彼は、何らかの組織の秘密工作員になった気持ちで、そこに忍び込んだ。
そこで彼は、この家の主人を見つけたのだ。白い骨だけとなった青年を。（その骨が探していた人物であると特定されたのは、歯形と治療記録の照合がされた後のことであり、その時自分はその骨があの青年であると気づいていたのかどうか、彼には自信が無かった。しかし、頭蓋骨の傍で縺れている薄い金色の糸の一団を見れば、そう気づいても不思議はなかった）
その時自分が何を思ったのか、彼はよく覚えていなかった。衝撃のあまり心に傷を負ってしまったというわけではなく、自分の感情を吟味する前に、周囲の反応に押し流されてしまったからだった。
彼を探しに小屋に入ってきて、金切り声を上げて倒れる母、その声に駆け込み、慌てて彼を抱き上げて視界を塞ぐ父、父に命じられ、這うように通報しに行く警備会社の者。それら全てが、彼とこの青年の屍の交歓を阻害してしまった。
発見当時の記憶は曖昧な彼にも、その後の出来事の記憶ははっきりとあった。嵐の中に放り込まれたような混乱であったにも関わらず。そう、それはまさに狂乱と言っていい、無茶苦茶な事態だった。
その日を境に一変した人生の中で、彼が覚えているのは以下のようなことだった。まず、奴隷小屋に保管された数々の死体が、人々を恐怖に陥れた。次々と発見される冷蔵された生首や、アルコール漬けの手首は聞く者を震え上がらせた。
そのうち、被害者の多くが家出少年と判ると、恐怖は一気に世界中に拡大した。フレンチ・クォーターに出かけてから帰らない家族を持つ者達が、度を失ってしまったのだ。家族達は捜査状況の進展と、被害者の身元確認情報に目を凝らしていたが、既に殺人者が死んだ上、犠牲者の身分を明らかにするような所持品はほとんど残っておらず、失われた家族の末路をここに求めることができた者は、ある意味幸運といえた。
そして家の主人の洋服ダンスから、犠牲者の殺害から解体の様子を克明に写した写真が発見され、さらに冷蔵庫の処理された人肉から被害者達が食肉となっていたことが判明すると、人々の衝撃とそれが引き起こすパニックは留まる所を知らないようだった。
テレビのニュースは連日、新たに発見された遺体や判明した被害者の身元を報告し、ロイヤルストリートの館は物欲しげなカメラによって、恐怖の館のように映し出されていた。（殺人者が前半生を過ごしたセント・チャールズ・ストリートの彼の家の前にもしばらくはカメラの大群が構えていたが、警備の者達が懸命に追い払ったらしかった）
そしてその館の主人の生前の姿も、多くは恐怖と憎悪の対象として、ごく一部では崇拝の対象として祭り上げられていた。近隣の住民は、自分達の身近にこんな悪鬼の如き怪物が息を潜めていたとはと、身をすくめていた。その悪鬼の狩猟行為を日常として眺め、その上で無害な変態であると断定していたのは、他ならぬ彼らであることに関しては皆奇妙な程、健忘症になってしまうようだった。
同時に、殺人者の死により行き場を見失った熱狂による「犯人捜し」もエスカレートを極めていた。一体何が、裕福な青年を言うもおぞましい犯行へと走らせたのか？それは原因究明のためというよりも、死した殺人鬼の代りに裁かれる者を求めての魔女狩りに近かった。
多くの専門家―精神医、教育家、心理学者、元警察官etc…―がそれぞれに見解を述べていた。ある者は、忙しい事業家で艶福家の父とアルコール中毒の母という家庭環境にあると言い、ある者は、友人に乏しく、いじめられっ子であった学校生活にあると言い、またある者は、先天的な病質のようなものだと言っていた。
どれも、費やした言葉と時間の割にたいした実りはもたらさなかった。結局全て、少しは正しく、そして同じくらい間違っているのだろう。確かなのは、この街の少年愛好家達に氷河期が到来したことぐらいだった。あれ程までに広場に溢れかえっていた家出少年や、男娼達は一体どこに消えたのだろう？
専門家の分析を待つよりも、人々はより確実な方法をとったのだ。ジェイの属した性質の全てを避ければ安全であるという判断のもとに。それは理性的な判断というよりは、より本能的な反射反応といえるものだった。
後から見れば少々ヒステリックにも見えるその反応は、殺人者と同名というだけでリンチを受ける者が出ても不思議は無い程だった。しかし犯人が通称で通していたこともあり、全国のライサンダー氏が迫害されたという話が特に聞かれることはなかったことは、幸運といえるだろう。
それらの狂想曲の中で、彼が特によく覚えているのは、次の話だった。捜査が進むうちに、最後の犠牲者となったヴェトナム人の少年―彼がジェイの屍と共に発見した、より小柄なもう一体の屍がこの少年だったのだと、彼はその時初めて知った―が一度は逃げ出したのを、警官達が殺人者の手に返してしまったことが明らかになったのだ。
「俺は救急車を呼んだ方がいいと言ったんだが」と、テレビの画面の中で黒人の男性がマイクに囲まれて当時の状況を語り、憤るのを彼は目にしたことがあった。そうすると、世間は一斉に警察を非難し始めた。あたかも殺人者よりも悪であるかのように。
確かに、怪我をしている少年を、警官に数百ドルもの賄賂を渡してまで連れ帰ろうとする男に、ある種のいかがわしさを感じ取らなかったら何のための警察かと、彼も思わないでもなかった。しかし、虐待を受けたにしては少年はジェイの腕に易々と収まっている様に見え、連れ帰ろうとする男にも悪意がある様には見えなかったと、例の黒人男性も語っていたのだった。
結局、不運に不運が重なったとしか言えなかった。抗弁できない被害者、まともそうに見える加害者、ちょっとぼんくら…いやいや忙しすぎる警察。それが、考え得る最悪の事態を招いたというだけのことだった。彼はそう思っていた。そして、最後の被害者の父親もそう思った様だった。
その壮年の男性は一度だけ、人々の前で息子の死に対する哀しみを表明したことがあった。背筋を伸ばし抑制の効いた声で、犯人以外の誰を責めるでもなく、息子の奔放さが招いた悲劇を語るその態度は、見る者にその気丈さもさることながら、それ以上に一抹の冷厳さを感じさせるものだった。恐らく哀しみの中にも一匙、息子の愚かしさを裁く気持ちが混じっていたのではないだろうか。
さて、新発見の情報もある程度出尽くし、ネタが尽きてくると、マスコミは苦し紛れに、殺人者の一族の来歴や、古の殺人鬼、ジョナサン・デグルポワンの伝説を書き立てだした。まるで彼らの一族に呪われた血が流れ、それが人を殺人鬼に成長させるとでも言うかのように。実際は彼らの一族には、殺人鬼でない者の方が圧倒的多数を占めているのだが、それを指摘できるほど冷静になれた者は存在しなかった。
そしてそれが成功を収め、結局のところその犯行は呪われた血のせいだったのだというところに、司法や精神医学の世界はともかく、市井の世界の世論は落ち着きを見せたようだった。なぜなら、そうすれば誰も傷つかずにすむからだ。警察も、学校関係者も、殺人者の昔の友達も。
傷つけられるのは、殺人鬼を輩出した一族だけで十分というわけだった。確かに今思い出しても、安心して叩ける対象を見つけた後の民衆の狂騒ぶりはただごとではなかった。その勢いは、法が支配するこの時代でなければ、彼らの一族を根絶やしにせんと言わんばかりであった。
しかし彼は予想した程に攻撃的な中傷や、敵意を向けられはしなかった。何故かというと、この殺人鬼・ジェイを殺人に駆り立てた一要素として、殺人鬼の末裔として忌避された過去というものが、既に挙げられていたからである。
それを挙げた専門家（何の専門家かは忘れた）は、ジェイの犯行を孤独が引き金であると分析し、その一因としてそれを挙げ、今また殺人鬼を出したことでその一族を迫害することは、新たな殺人鬼を産むことにつながるのではないか、という懸念を示していた。残された一族への攻撃を減じさせたという点で、この提言はこの事件について出された中では、最も意味のある意見かもしれなかった。
しかしそれでも彼の一族は冬の時代を迎え、随分その人数も減ってしまっていた。以前はその煌びやかな流れに連なろうと必死で食いついていた輩のほとんどは、連絡が取れなくなるか、他人の振りを決め込んでいた。
もっともそのおかげで、今彼は先祖以上の金持ちになれたわけなのだが。一族伝来の富にバーン家の財産が加わった、ジェイが所有していた全てが、今や彼の懐に流れ込んできたのだ。そしてそれを彼と争おうという者はいなかった。
彼が金持ちになったのは、ジェイの母―息子の所業やその死を知ってか知らずか、苦しみ抜いて病院で死んだ女性―の遺書に、遺産は息子のジェイと、彼女にとっては甥となる、ダニエル・デボアの息子（彼の父）で分けるようにとあったためだ。
ジェイが家族を持たずに母より先に死んだため、全ては彼の父のものとなった。そして彼の父は、従兄弟が起こした事件への対処に追われ続け（彼はその父・ダニエル程、事実をねじ曲げる術に長けてはいなかった）、その責務の上にさらに加えられる攻撃に耐えに耐えた挙句、つい先日、その長くはないが疲れ切った一生を終えたのだった。まだ若い、一人息子の彼を残して。そして彼が、その莫大な遺産―被害者の家族への賠償などで目減りはしたが、それでも十分莫大といえた―の一つとして、この館も相続したというわけだった。
自分の物となった館内を歩き回り、書斎を検分していた彼は、そこに懐かしい本を見つけた。それは、詳細な挿絵が美しい、医学書のテキストだった。
ジェイが残した殆どの物は、彼の手には残らなかった。保存された生首も、花で飾られた頭蓋骨のオブジェも、扇情的で衝撃的な写真も、因業深い拷問具も。ホラー映画のビデオテープですら、持ち主の殺人嗜好を裏付ける証拠品の一つとして、警察に押収されてしまった。
しかし、この医学書は貪欲な警察の手から無事に逃れられたようだ。これだって、殺人嗜好と関係があるかも知れなかったが、警察はそうは思わなかったらしい。そのおかげで、今こうして彼が人体の断面図に見入ることができていた。確か彼が子供の頃に自宅の書斎で見たことがあり、お気に入りの本だったのだが、いつからかその本棚から無くなってしまっていたのだ。まさか、この家の本棚で再会できるとは思ってもみなかった。
いかなる運命の巡り合わせだろう？彼の脳裏に昔見た、彼の家の書斎から出てくるジェイの姿が浮かんだが、何故かは判らなかった。彼はこの偶然を喜んで受け止めた。
懐かしい思いで頁を繰っていると、階下で突然柱時計が鳴りだした。その物音に驚いた彼は素早く辺りを見回した。自分でも驚くほど素早く。彼は、いつからか自分が監視されているという思いを消すことができなくなっていた。いや、実際監視されているのだ。今この時、正真正銘の独りであるこの瞬間も。
事件が与えた衝撃も一段落すると、人々はこの教訓を未来へと活かそうと躍起になった。このような殺人鬼の誕生はどうやったら防ぐことができるのか？壮大な実験が幕を開けた。その実験対象として選ばれたのは、殺人鬼の一族で最も年若く、かつ凄惨な現場を目撃した彼だった。
彼は成長するまでの間、自分が何度心理テストや精神分析やカウンセリングを受けてきたか判らなかった。それを受けている間は、確かに殺人に時間は費やすことはできないのだから、ある程度は殺人鬼の誕生を阻止するのに一役買っていると言えないこともなかった。しかし、それ以上の効果については、彼は常々疑問に感じていた。すっかり慣れっこになった彼は、試験者の望むであろう答えを用意できるようになっていたからだ。
大人達は彼に、事件にまつわるトラウマやそれによる危険な兆候が現れやしないかと、おっかなびっくりと、それでいて心底熱心に、飽きることなく嗅ぎ回っていた。彼の人生は、その精神的傾向に対するテストや診断や判定の連続だった。
その試験範囲は、日常生活の些細な言動にまで及んでいた。彼の行動は常に周囲の目によって監視され評価され、その一挙手一投足は何らかの（彼には判らない）基準を以て検分された。そしてそれは恐らく、彼が死ぬまで続けられるに違いない。
いや、その死後も彼の脳がホルマリン漬けにされ検分され、殺人鬼一族の脳の特徴を調べられるという可能性もゼロではなかった。特に彼が凶悪事件を引き起こしたりはしなくとも。時が経ち、次第に人々が事件の記憶を失い始め、フレンチ・クォーターが以前の猥雑さを取り戻しかけてからも、依然として彼の生活の全てに、ジェイの後ろ姿は影を落としていた。
もちろん、彼の家族は彼を深く愛していた。しかしその愛はあの事件「にも関わらず」というよりは、「だからこそ」という性格を強く帯びていた。彼の父は、ライサンダー（一世）の様になるまいと、努めて良き家庭人であろうとしていた。外に愛人を作らず、酒に溺れず、妻や子の話に誠実に耳を傾ける良き父を、彼は演じ上げた。ジェイから受け継いだバーン金属化学工業の責任者としての任や、被害者救済の任の上に加わったその重圧は、確実に父の命を削っていた様に思えた。とすれば、父を殺したのは彼であると言うこともできた。何と哀しいことだろう。
彼の母は、ミニヨンの様になるまいと、息子の面倒を見ることを至上命令として生き、実際彼の行く所について回って、彼女の関心が常に彼に向けられていることを示していた。一体誰に対して示そうとしているかは、この際さておくとして。そして何より彼を悲しませたのは、そうしている彼女が全く幸せそうに見えないことだった。彼のために人生の殆どを費やさせて、母を不幸にしているという考えは彼を酷く苦しませた。
彼の心の耳には、完璧な役割演技の裏の二人の叫びが常に届いていた。父の「お前だけは、あれの様にはなってくれるな」という溜息混じりの告白が、母の「私を、母親として失敗者にはしないでちょうだい」という涙ながらの哀訴が。
彼は両親の願いに背くことはできなかった。その裏に透ける自己愛には吐き気を催しながらも、それも仕方ないことに思えた。彼は理想的な両親を演じる二人に劣らない完璧さで、理想的な子供を演じた。しょうがなかった。そうする以外に、彼がこの世界で生きる術は無かったのだ。少しでも二人を失望させれば、彼の家庭は簡単にはじけ飛んでしまっていただろう。火にかけられた乾燥トウモロコシよりも簡単に。
父の言う「あれ」が誰のことを指しているかは、言わずもがなのことだった。実際、一族の間でジェイの名（本名ではなく通称）は殆ど禁じられたものとなっていた。しかし笑止なことに、誰もがその青白い亡霊を頭の後ろにぶら下げていた。いや、その無体な悪霊に首筋を掴まれて、引きずり回され続けているという方が正しかった。その湿って冷たい、骨張った手から逃れることができる者など、一人もいなかった。
生前、一族の悪名のただ中で震えていた青年は、死後その所業により一族を思うさま蹂躙した。彼が受け取った以上の悪名を、その華と泥に満ちた歴史に大きく深く刻印し、それに連なる者の上に、今なおサディスティックで冷酷な魔王のように君臨していた。誰もが彼を呪い、呻吟しながら、易々とその軛に繋がれていた。
己がこれほどまでに多くの人々の心に長く深く浸食し、毒を吐き続けているなどと、生前のジェイには予想もできなかったに違いない。だとしても喜びはしなかっただろうが。
そんな環境の中で、彼は両親の願い通りに成長した。父も一応は安堵して旅立ってくれただろうと、彼は信じていた。それなりの学業を修め、それなりに課外活動に精を出し、それなりに友人にも恵まれた幸福な青年。何においても過剰さを示さず、危険な兆候の見られない極めて「正常」な青年。それが彼だった。彼はジェイよりずっと幸せだった。間違いなくそのはずだった。
長く執拗な吟味を経て、ようやく周囲の人々は安心したようだった。これなら、あのジェイのようにはなるまいと。本当にそうだろうか？彼には自分自身に対する疑惑があった。ならばなぜ、彼の心は渇いているのだろう。なぜ騒ぎ立つのだろう？
なぜ彼を取り巻く優しい人々の腹を、切り開きたいと熱望しているのだろうか？きっと彼らの愛情や友情が本物であるかどうか、不安でたまらないのだろう。彼らが彼に示す好意の裏に「呪わしい殺人鬼の末裔と、親しくしてやっている自分」に対する愛が、如何ほどの割合を占める物なのか、一体どうすれば判るというのだ？
きっとジェイも似た様な疑惑に駆られて、殺人に手を染めたのだろうと彼は推測していた。発見された殺害写真から、ジェイは犠牲者の腹を切り開くことに異様に執着していたらしいということが判明してから、その確信は一層強まった。ジェイと彼の違いは、実際に行動に移して友人の腹を切開するか否かくらいのものだった。彼は解剖があまり得意ではなかった。煌びやかな内蔵は、今のように書物で見るだけで十分だった。
彼は認めねばならなかった。自分は孤独であると。かの殺人鬼・ジェイにも負けない程に独りぼっちだと。周りに人がおらず独りであるのと、人々の中にいて独りであるのは、一体どちらが真に孤独であるというのだろうか？
彼には判らなかった。頭が重くなってきた彼は医学書を戻すとソファに寝ころんだ。浅い眠りはあっという間に夢を運んできた。それも、彼のお気に入りの夢を。彼には、幼い頃から繰り返して見る、ある夢のモチーフがあった。
しかしその内容を、どんなカウンセラーにも医師にも話したことはなかった。話したらその晩から、その夢の魅惑は捕獲され解剖され、精神的外傷の症例としてホルマリン漬けの標本にされ、二度と彼の元を訪れてくれなくなると信じていたためだ。
待ち望んでいた人影が、揺らめくようにして彼の目の前に現れた。それは金髪の若く美しい青年であり、同時に完全たる白骨標本という姿をしていた。彼がかつて目にしたジェイの姿が、その身体を半々に分け合って一つの身体に存在していた。これこそが幼い日以来の、彼だけの秘密の恋人だった。
この夢想が、些か猟奇めいて異常であることは彼にも判っていた。それと同時に、夢の中でくらい異常でいさせてほしいと願う気持ちもあった。別に、誰に迷惑をかけるわけでもないのだから。周囲を安心させ、彼自身生きやすくするためとはいえ、足先から頭の天辺まで、徹頭徹尾「正常」でいるのは案外疲れることだった。
その夢の恋人が何をしてくれるかと言えば、これが全く何もしなかった。当然だった。彼は死体なのだから。屍が自主的に何かをするはずがなかった。ただ、彼の傍に横たわって静かに朽ちていた。それで十分だった。この恋人は彼のことを裁きも、評価も、値踏みも、診断もしなかった。それこそが彼が何よりも求めたこと、そして生きる者の誰もしてくれなかったことだった。心の奥底にこの屍を保管していたからこそ、彼は今まで壊れずに済んでいたのだろうと思っていた。
もちろん彼は、ジェイのように現実に死体の恋人を作るつもりはなかった。恐らく彼は、人々の耳目を驚かすような真似は為し得ないままに、その小心にして人畜無害の、無難な人生を終えることだろう。彼は自分に期待されているのが、殺人鬼かもしれない己が本分を発揮することではなく、目立たず周りに迷惑をかけず、良心的に生き腐れた人生であることを知っていた。とにかく、ジェイのようにならなければそれで良いのだ。彼自身の個性や天分など、全く問題にされなかった。（無論、彼が名を上げて一族の汚名を雪ぐことができればそれは素晴らしいことだが、それを待つよりは、ほとぼりが冷めるまで静かに生活している方が安全と判断されたようだ）
そんな、人々のそして両親の切なる願いを踏みにじるには、彼は彼らを愛していた。その願いが彼への愛以上に虚栄心や自己保身を多く含有していようとも、それでも一応何らかの価値はあるのだから。彼はそう信じていた。
しかし、この理想的な死体の恋人を夢の中に住まわせることができなくなったなら、その時に彼は死ぬだろう。より正確には、その彼はもはや彼ではないのだろう。心の中に埋葬された美しい屍を捨てて正気になるよりは、彼は狂気のままでいたいと願っていた。港に入る船全てが自分の物であるという妄想から覚めて、かえって不幸せになったアテネの狂人のように。
今なら分かる。彼が変わり果てた親戚の姿を目にした時、あの幼い日に彼が感じたのは、途方もない欲情だったのだ。彼ははっきりと、完全な白骨死体の美しさに興奮していた。できることなら彼は、その象牙色の骨に向かって射精したかった。当時はそんな言葉も現象も、頭にも身体にも存在しなかったけれど。
ああ、やっと思い出した。あの日の記憶の空白を。あの時幼い彼は、恋人同士の様に寄り添う骨達がひどく羨ましくて、その間に割って入るように飛び込み、駄々をこねるように転げ回っていたのだ。我ながらたいした度胸だった。
小屋に入った彼の母が甲高い悲鳴を上げたのは、別段彼女が細かい神経の持ち主だからというわけではなかった。誰だって、その幼い息子が白骨死体の中に横たわっていたらそうしておかしくはない。そして、父が慌てて彼を抱き上げたのも、幼子に死体を見せないためというのもあったがそれ以上に、死体の発見現場を荒らさせないためだったのだ。
だとすれば、これが自分の初恋で、そして今それは成就しているのだろう。夢の世界に半ば入り込み、傍らに屍のジェイを横たえながら、彼は微笑んでいた。いや、彼とジェイの交際は、夢の中だけのことではなかった。彼らは現実世界でも常に一緒だった。
専門家が彼に検査や分析の結果を伝え、彼の精神について見解を述べる時、両親が彼の顔色を窺う様に優しい笑顔でその内面に探りを入れてくる時、友人達がことさらに彼らの公平さや友情を誇示する時、彼の名を知った者が臆病な好奇心に一瞬顔を輝かせる時、いつも彼は自分の背後にいるジェイの影を感じていた。
そして彼らはこれからも共にあり続けることだろう。彼が知る限り、あの運命の日からずっと、いつでもジェイは彼の人生とともにあったのだ。片時も離れることのない、生涯の恋人のように。
（了）
ＥＣを読んで、その結末の描写にこみあげる物（嘔吐物ではない）を感じながらも、「…でもこの死体が発見されたら、大騒ぎもいいところだよね…特にジェイの親戚。というかセキュリティ会社の人とか、時々様子見に来ないの？白骨化するまで放置って有り？」などとグダグダ考えもしてしまい。うーん。
名無しとはいえ、オリキャラの「彼」が出張ってて申し訳ない。第五章Ｐ116の、「屋敷にはダニエル・デボアの息子にあたる従兄弟がその家族とともに住んでいる」という記述から、私の脳内でその家族構成を妄想し、誕生しました。オギャー。
ぶっちゃけると、事件発覚後の混乱を目撃し、人生を大きく変えられた一族の人間について考えたかったのです。その上で、ジェイの遺産も相続し、良くも悪くもジェイから何かを受け継いでるキャラで、その上ＥＣが下敷きならば、死者との愛で締めねば！という思いこみでこういったことになった次第です。間違ってますかね。
彼だけ太字にしたのは、私自身がよく、男性が複数登場する話を読んでいて、「この「彼」というのはどの男のことだ？！」と混乱してしまうためです。少しでも混乱を減らせないかと、主人公の「彼」だけ区別してみましたがどうでしょうかね。…「彼」の区別で混乱するのが私だけなら、それはそれで良いのですが。
そして、既存キャラ（ダニエル・デボアの息子とミニヨン）を勝手に死なせててさらに申し訳ない。ミニヨンママは、ジェイが死んだ後どうなったんでしょうかね…意外と持ち直したり？どうですかね。
残された遺族の大変さはこんなもんじゃ済まないと思われますが、ダニエル・デボアの息子でジェイの従兄弟の人にそのほとんどを背負ってもらいました。実際、事件が発覚したら一番苦労しそうな人じゃないかと。
2006年7月6日