彼を―アンドリューを自分の物にしなければ。今すぐに。突如、ジェイは何者かの啓示を受けた。それは、彼が一人、図書室で椅子と本棚の間を行き来している時のことだった。送り主が誰なのかは判らなかったが、今の彼には有益なメッセージであると思われた。丁度今、熱を持って潤む目頭と、始終湿った音を立てる鼻を持てあましている彼には。
数時間前に、恋人がくつろいでいる居間から追い出されてからというもの、彼は一時たりと落ち着くことなく動き回っていた。動くのを止めた途端にバラバラになる、からくり人形でもあるかのように。
椅子と本棚の間を意味無く往復するのを止め、本棚の前に立ち止まると、彼の手は並べられた本の背をなぞり、無作為に取りだしてはめくり、また戻す。そんな行為を、繰り返し始めていた。
特に目的の本があって、それを探しているわけではなかった。何でもよかった。ただ、この度自分の身に降りかかったことを解明してくれれば。そして、この状況を打開するヒントを与えてくれれば。
彼は、先だって恋人から自分に投げかけられた言葉を思い返した。あれはどういう意味なのだろうか？少しの間だけでも、独りにして欲しいとは？自分と共にいたくないということなのだろうか？ジェイは彼と、僅かな間でも離れがたく思っているというのに。
ジェイは、彼を芯から痛めつけ、弱らせたやりとりを思い返した。いつも通り、秋の弱い日差しが差し込む居間のソファの上に、横になっているアンドリューを見つけた彼は、その足下に座り込んだ。目を閉じて音楽に耳を傾ける彼に、別に話しかけたりはしなかった。ただ、傍にいたかった。彼を近くに感じたかっただけなのだ。
気配に気づいたのか、目を開けて起きあがったアンドリューは、ジェイの姿を見ると、少しの間何か考えているかのように黙っていた。そして、いつになく神妙な面持ちで―彼自身どうしたらいいか迷っているような表情でもあった―ジェイに、先程の言葉を告げたのだった。
アンドリューとの出会いは、彼の世界を一変させた。そしてまた今、その新たな世界が足下からひび割れていくようだった。アンドリューに代って新たな世界となるものが無い今、この世界が完全に割れてしまったら、彼は虚無に呑まれて行くしかなかった。呑まれた自分がどうなるかは判らなかったが、その想像は酷く恐ろしかった。
そうなる前に、アンドリューを自分のものにしよう。彼の不安定な世界を、確固たるものにするのだ。彼は決意した。それには、全く異議はなかった。そうだ、そうしようじゃないか。だがどうやって？いざ方法の話になると、彼の脳内の会議は一向に進展を見せなかった。
肉体関係に持ち込むか？その提案は即座に却下された。彼自身、数多くの少年の身体に侵入し、その精を味わったりしてきたが、それで他人との隔てが取れたと感じたことは一度もなかった。かえって、互いに肉体という牢獄に捕らわれた囚人同士、鉄格子越しに手を触れあっているにすぎないことを思い知らされるだけだった。それでも、互いの牢内で蹲っているよりは意味があるかもしれないが。
かといって、それ以外に生者と親密さを深める方策は見出せず、彼は今更ながら、己の人間関係の貧しさ、不毛さを痛いほどに感じていた。同時に、頭の中の会議も堂々巡りに突入しようとしていた。
ふと、彼は偶然手にした本に目を留めた。それは、少年時代、この街のブードゥーショップで衝動買いした呪い〈まじない〉の本だった。何かの儀式を実行しようとして買ったはずだが、家に着く頃には何故買ったのか思い出せなくなっていた。そしてそのまま今日まで、書かれている儀式を実行するどころか、頁が開かれることもなく、永きにわたって本棚に眠っていた本だった。
その本が今、再び彼の手の中で開けられるのを、魔力を求められるのを待っていた。これも何かの前兆なのかも知れなかった。少なくとも彼はそう受け取った。彼は十年ぶりにその本を開き、今、彼が抱いている悩みを扱った頁を探した。
目次は、彼を目的の頁へと、確実かつ迅速に導いてくれた。生まれて初めて胸に受ける、黄金の矢の痛みに耐えかねた少女達も求めて止まない呪い、「恋の呪術」という頁へと。
探していた項目に目を通すと、彼は本を元の場所に戻し、軽く伸びをすると台所へ向かった。外では日が沈みかけている。そろそろ夕飯の支度をしなければ。食通のアンドリューを満足させ、かつ多少何かが混入してても気づかれないような料理を。その「何か」の具体的な内容は、もう少し彼自身で考えなければならなかったが。
ブードゥー教の呪いでは、男の心を繋ぎ止めたい女は、料理に己が経血を混ぜて食べさせるという。さて、男の心を繋ぎ止めたい男は、何を混ぜればよいのだろうか？
台所から漂ってくる香辛料の香りに、わたしは目を覚ました。長いカーテンはぴったりと閉められ、ソファに伸びるわたしの身体には毛布が掛けられていた。どうやら、居間でＣＤを聴きながら眠ってしまったようだ。そろそろ夕食の時間に違いない。わたしは台所に向かった。
台所に足を踏み入れたわたしを、ジェイは忙しくも、機嫌良く迎えてくれた。料理は盛りつけられるのを待つばかりで、鍋の中で湯気を立てていた。彼は、夕飯の要望を訊こうとしたが、気持ちよさそうに眠っていたので止めたと、そして丁度今、起こしに行こうと思っていたところだと言った。
元気そうなその様子に、わたしは心の内側で溜息をつき、安堵の汗を拭った。数時間前の彼の状態を思い返せば、ここまで回復してくれたのはありがたかった。わたしに、無慈悲な言葉で追い払われた時の彼の表情を、今にも外に飛び出して、濁流に身を投げてしまいそうな惨めな表情を思い返せば。
わたしとしては、精一杯気を遣って告げたつもりだったが、みるみる暗くなっていく彼の表情を見るに、上手くはいかなかったようだ。彼がひどく傷つきやすいのか、わたしの表現力に問題があるのか。多分両方なのだ。
彼のことは愛している、しかし時々はわたしを放って置いて欲しい。自分には、一人になる時間も必要なのだ。それだけの内容を伝えるのに、わたしは何と神経をすり減らした事だろう。生者と愛し合うというのは、かくも難しく、厳しいものなのだ。ようやくわたしはそれを学びつつあった。そして恐らくは彼も同様なのだろう。
昼の出来事は、言葉の矢を放った当人である、このわたしにもいささか傷を負わせていた。直後に襲われた睡魔も、これ以上己にストレスを与えまいという、
わたしの脳の無意識的な防御機能の働きによるものなのだろう。
こんなことになるなら、いっそ言わなければ良かったと思わないでも無かったが、彼の姿を見ることに堪えられなくなる日が来ることの方が、わたしには恐ろしかった。もう十年近く、それこそ「死体と暮らすひとりの部屋」で生きてきたわたしには、いかに愛する彼とであっても、このプライバシーのない生活には耐えられなかった。それを彼に納得してもらい、一日数時間、いや数十分でもいいから、一人になる時間を与えてもらえれば、わたしは彼を愛し続けることができるだろう。
これは、それほど虫の良い考えでは無い様にわたしには思えたが、彼がそれをどう捉えるかはまた別の問題だった。その説得は困難な事業に思われたが、
今の様子を見ると、そうでもないのかも知れない。
少なくとも、彼が自力で傷を癒し、浮上する術を身につけていてくれたのは、これからの二人の関係を考えれば、重要であるといえた。生ある者同士、真剣に向き合えば何度傷つけ合うか知れたものではない。
生きる者の中でも特に繊細だろうと思われる彼との交際の困難さは、いつものように死体を犯し、解体する困難さとはまたわけが違っていたが、今のわたしは、この新たな学課に意欲的な生徒だと言って良いだろう。とりあえず今回の課題はクリアできたことに満足し、わたしは席に着いた。
さて、今日の晩餐のメインは、この街の郷土料理の一つという、具の多い泥色のスープだった。以前近くのレストランでも口にしたことがあったが、ジェイの作ったこれは、それよりも酸味が効いてこってりとしていて、わたしの口に合っていた。
ジェイの説明によれば、主にオクラを用いる以外は、具も味付けも作る者任せな、幅の広い料理なのだそうだ。ならば、二度目にして理想の味に出会えたわたしは、相当運が良いに違いない。料理の説明を聞きながら忙しくスプーンを運んでいるわたしを、ジェイは嬉しそうに、眩しそうな眼差しで見つめてきた。
その熱い視線に、妙に恥ずかしさを覚えたわたしが目をそらすと、彼の左の手の平に、大きな絆創膏が貼られているのが目についた。確か、昼頃までにはしていなかったはずだ。今までグラスに隠れてて気づかなかったのだ。
何があったのかを尋ねると、彼は照れたように微笑み、傷ついた手の甲を、もう片方の手で撫でながら説明した。台所で食前酒の準備をしている時に、足を滑らせてしまったこと、とっさに手をついた処にはワインオープナーの先端が光っていたことを。
この道具のせいで思いもよらない怪我をする羽目になったのは、これで二度目だと彼は笑って言った。わたしにこれを喉に突きつけられ、殺されかけた時に続いて二度目だと。
布部分に血の滲むテープを撫でながら、そう言って笑う彼の笑みは甘美で、わたしは胸に痛むようなときめきを覚えた。わたしは、彼の白い手に、無情な器具の突起が突き刺さる様を思い描いた。
何がわたしにそうさせたかは説明できない。しかし次の瞬間、わたしは彼の負傷した手を取ると、絆創膏を剥ぎ取り、傷口に唇を押し当てていた。
緩く固まりかけたゼリー状の血液を唇と舌でこそぎ取ると、そう深くはない傷口から、それでも血はじわじわと滲み出し、わたしはあの運命の夜以来再び、彼の血を味わっていた。素晴らしく剣呑なコルク抜きには、わたしから祝福が与えられよう。
夕餉の席で、伴侶の掌の傷を熱心に舐め回している男。それが今のわたしだった。全く、狂気の沙汰と言うしか無い、馬鹿げた姿だった。しかし、止める気にはなれなかった。彼は美味だった。彼の作った煮込み料理以上に、わたしの眼鏡に叶っていた。その疵口は、飲むほどに渇きの増す、毒の泉のようだった。
わたしは頭の片隅で、この行動の意味を考えた。彼から自由になりたがっていたはずだったのが、その彼を取り込もうとはどういうこと風の吹き回しだろうか？そして答えを見出すのを放棄した。判っていたのは、外から拘束される手錠は気にくわなかったが、内側から彼に繋ぎ止められるのは、さほど不快ではないということだけだった。
一方、その傷を開かれている彼はというと、わたしの行動に怒りもせず、咎めもしなかった。驚きの表情を一瞬見せたものの、今は不思議な声を上げて笑っていた。多分、くすぐったくて仕方がないのだろう。無理もなかった。しかしそれだけでなく、その笑い声は何故かひどく嬉しそうでもあった。
唐突に恋人の傷を舐め出す男に、それを難なく受け入れて喜んでいる男。わたし達は、信じがたいほどお似合いの組み合わせだった。いかに傷つきやすく扱いにくかろうと、彼以上に理想的な、わたしの恋人となるべき生者は存在しなかった。
ジェイは、思いも寄らなかった事の成り行きに、こみ上げる笑いを抑えることが出来なかった。アンドリューが、自分の特製のガンボスープを熱心にかき込む姿に見入って、この儀式は完了したかと思われたが、このような驚くべき続きがあったとは。
何もこんな、回りくどい事をする必要はなかったのだ。料理に自分の血液を混ぜて食べさせるだなんて。この恋人には、自分の生傷の存在をほのめかしさえすれば、それで十分だったのだ。
しかし、今の今まで分からなかったのだから、仕方がないことだった。恋人が、屍肉はもとより生きた血肉にも興味があるなどと。しかも、その対象が自分だなどと。全く、予想もつかないことだった。
何はともあれ、彼は恋の呪術をかけるのに成功したのだ。それも二重に。まずはそれを喜ぶべきだった。そして、喜ぶことにした。それに、アンドリューの屍肉への関心を強める役にも立つかもしれないのだし。
そして何より、アンドリューに消化吸収される自分の血液の行く末を思った。それは恋人の身体の中に留まり、微細な細胞に染み渡っていくに違いない。これから後、いついかなる時であろうとも、アンドリューの居る所には彼も居るのだ。それはそれは僅かな、ごく微少な一滴であろうとも確実に。もう自分は独りになることはないのだ。
そう信じることで、ようやくジェイは、恋人を一人にすることを承認することが出来た。もうアンドリューと物理的に離れるのも、恐ろしくは無かった。これでアンドリューは彼から自由になれる。そして彼も。彼の不安定な液状の世界は、今回の件で粘度を増し、安定を強めだしていた。
ふと、この助言の送り主に思い当たったジェイは、恋人を押し止めると誘いかけた。明日、日があるうちにマリー・ラボーの墓参りに行かないか、と。誰だ、それ？と眼鏡の奥から問いかける恋人に、ジェイはこの街のブードゥーの女王の伝説を語り始めた。
（了）
第十一章のＰ271で、二人が一緒に暮らし始めたあたりで「アンドリューがジェイ宅内のどこに居ても、必ずそこにジェイは現れた」というような記述が有りまして。最初は「アンドリューにくっついて回るジェイたん萌え☆」と特に気にも留めませんでしたが、再読時に「…もしかしてジェイ、ちょっとうざくないか？」と感じ。アンドリューにしてみたら。
そんなわけで、ちょっとは一人になりたいアンドリューと、ずっと一緒にいたいジェイの、噛み合わない恋愛観のもたらす悲劇を書いてみたくなりまして。どうですかね。ジェイたんは、誰かを好きになると途端に距離感とれなくなる、可哀想な子だと信じています。
あと、料理してる人が台所で手を怪我して、その傷を恋人がチューッとやってドキッな、太古より伝わる萌えシチュエーションに挑戦しようとしたら、こんなことになりました。大部違いますな。
そして、せっかくニューオーリンズなのでブードゥー教も匂わせたくなりつつも、当方ブードゥーの呪術はこれぐらいしか知らないという不勉強ぶり。Ｄ・マーティンの『誰かが泣いている』にも出てきた術ですが。
唐突な啓示ですが、ジェイは作中で宇宙からの緊急通信を受けたりしてたので無問題。…返す返すもスゴイキャラですなー…。
2006年6月20日