血塗れのベッドの中、微睡みながら寝返りをうとうとしたジェイは、自由のきかない肩と腕に、自分が手錠をかけられたままであることを思い出し、目を開けた。彼のベッドの中では、病んだ少年の惨死体と、自分と恋人が身を寄せ合っていた。
彼は、首をひねって自分を拘束する手錠を見た。それまで、数知れない少年達の自由を奪い、拷問、殺害に手を貸してきた代物だ。今の自分がその少年達と変わらない無力な存在であることを思えば、奪われたのが尻穴の純潔だけであったのは幸運といわなければならないだろう。
そしてそれを奪った犯人はというと、それ以上の物には手をつけることなく、彼の傍らで穏やかな寝息を立てている。まるで、数刻前の殺人や強姦には没交渉であるかのように。彼は上体を起こし、縛められた腕を上げて、その髪を撫でた。できるだけ優しく。
手錠で繋がれて後ろに回された腕を前に持って行き、鎖の部分を強姦者の喉に回して引き上げれば、殺すことは可能だろうが、彼にはそんなことをする気はなかった。
彼は、以前、恋人がこのアクセサリーを付けさせられて怒っていた様を思い出して、笑みを浮かべた。この銀色の手枷は彼の恋人には似合わなかった。その自己申告を尊重すれば。彼にはどうだろう？似合っているだろうか？恋人が起きたら聞いてみたいと思った。
恋人の寝顔を眺めながら、彼は数時間前に、自分の身に降りかかったことを反芻していた。頭で思い出すまでもなく、疼く前立腺と痛む肛門は自分達が受けた仕打ちを忘れてはいなかった。それどころか、声高に被害の甚大さを訴えていた。
彼は思い返した。恋人がいかに彼を惨く扱ったかを。僅かの間とはいえ、気絶するほど殴り飛ばし、手錠をかけ抵抗を封じ、括約筋の反発をも物ともせず、いかに遠慮会釈無く、無体に彼の躯に押し入ってきたかを。
そして、この行為が意味する内容を思った。いかに愛で飾ろうとも、消えることのないその真の意味を。性格も名前もないただの肉塊として、欲情の捌け口とさせられることの意味を。
生き身の人間に加えられる最大の侮辱、人権の徹底的蹂躙、個人の尊厳に対する言うもおぞましい冒涜。そう、その通りだった。
その陵辱を我が身に受けた時、彼は何を感じるべきだったのだろう？焼けるような屈辱、あるいは魂の底からの怒りか？きっと、それらを感じるべきなのだろう。彼は、理不尽な虐待を受けた、まごうことなき被害者なのだから。ならば何故、今の自分はこんなにも心が軽く、充足と解放に満たされているのだろう？
そう、これこそが彼が最も必要としていた物だったのだ。彼の名前も歴史も物語も全て剥ぎ取られ、文字通り素裸の彼を欲されること。その意志もプライドも好悪も度外視した、完膚無きまでの蹂躙をその身に受けること。踏みにじられ汚され辱められた彼の心は、望みが叶った喜びに快哉を叫んでいた。
今まで、誰もこんなことを彼にしてはくれなかったのだ。ただの肉体として、欲望を吐き出すための道具として使用したりは。彼の属する階級、身分、財産への尊崇がそれを許しはしなかった。あるいは、彼の家の物語、悪臭紛々たるそれへの嫌悪が。どちらにしても同じことだった。彼はそんな物は望んでいなかった。
全ての人間は、彼を遠巻きに眺めていた。触れることを恐れるかのように。彼が生身の、神経も感情もある人間でなく、佳く拵えられた人形であるかのように。彼は、常に自分と世界の間に透明な膜があるように感じていた。いや、壁だ。彼はガラスの棺に埋葬された、豪華な死装束のミイラも同然だった。
見物者達は注意深く展示ケースとの距離を保ち、許される範囲の好奇心で覗き込み、装飾品への賛辞か、骸への嫌悪を呟くのだった。そしてそそくさと立ち去るのだ。ケースを開いて屍の彼に触れようとする者など存在しなかった。今晩までは。
珍奇な事物として大英博物館に持ち去るでもなく、煌びやかな屍の彼を愛してくれたアンドリュー。それも、その独自の愛の流儀で。
彼は鮮やかな技術で、ジェイの被虐性―本人も知らなかった奥底を引き出してみせてくれた。かつて愛した若者達に対して、惨殺することでその屍としての魅力を引き出したように。今夜の彼は、生きながら吊し切りに解体され、その目前に己の臓腑を見せつけられた生贄だった。
己が皮膚の下に隠れていた未知の存在―知識としては知っていようとも―を目の当たりにし、新たな自分を点検した彼は、賛嘆を禁じ得なかった。アンドリューの手際は見事だった。
彼の手で解体された屍は、己の変貌を歎くより先に、まず驚嘆するに違いない。自分は、本当はこんな姿をしていたのかと。自分の中にこんな物が入っていたのかと。それは、医学用の人体模型に感情移入しただけでは得られない驚きだった。
そして、今宵のジェイも暴かれた己の本性に戸惑いながらも、その発見者に感謝していた。今の彼は素裸を通り越して、断ち割られた腹から内蔵を露出させるようにして、その服従者の魂を自他の目の前にさらけ出していた。
それは今や、引きずり出された腸のように、彼の脚の間にぶら下がって己の存在を誇示していた。その自前の装飾品は、これまで肩からずり落ちるように、不格好に羽織ってきた、支配者という名の豪奢な衣装よりも、ずっと彼には似合っていた。
些か強引なやり方で、アンドリューは彼に、その運命を指し示してくれたのだ。これが彼のなすべきことであり、なるべき姿だったのだ。愛情深くも酷薄な主人に優しく鎖で繋がれ、愛の奴隷となること。何者にもなれずに彷徨っていた日々に、啓示が与えられたかのようだった。
思えば、誰も彼にこんなことは教えてくれなかった。隷従の喜びなど。幼い頃、父親は彼に経営の術を熱心に教え込もうとし、母親は社交界での立ち振る舞いを身につけさせようとした。その他にも、支配者に相応しい技術の数々を。いずれも無駄に終わった。全て物にならないと分かると彼らは匙を投げ、息子に期待することを止めた。
彼らの期待通りに育たなかったことに苦しんだ、遠い記憶の蜃気楼を望みながら、ジェイには、今ならその理由が分かる気がした。結局、向き不向きの問題としか言えなかった。彼は支配する側ではなく、支配されてこそ活きる人間なのだろう。できることならその事実を告げ、幼い頃の自分を慰めてやりたいと思った。喜ぶかは分からないが。
肉親達が二十数年血眼になって探し回った挙句に見落としていた才能を、出逢って数日の内にアンドリューは見出してくれたのだ。そして今や彼はジェイの主人となった。
いや、主人というだけではない。白馬の王子というべきだった。ガラスの棺で死の眠りについていた白雪姫を目覚めさせたという。もし、白馬の王子が、棺を叩き割って中の死体を引きずり出して俯せに横たえ、情熱的な口づけでなしに残忍なレイプで、姫君に温かい命を吹き込むとするならば。
今の彼は、固く閉ざされた茨の城で目覚めた眠り姫だった。100年とまではいかないが、本当に長い間―27年間もの間、眠り、埋葬されていた処を救出され、目覚めさせられたようだった。アンドリューの腕の中という血塗れの子宮で、彼は生まれ変わったように思えた。
新生した頭で、彼は前世の記憶を反芻し、最も鮮やかに焼き付いていた少年―トランを思った。彼が所有し損なった少年、危うく彼の心に触れかけた少年を。本当にもう少しで。アンドリューと違い、ジェイの意志を尊重して身を引いてしまったのが別れ目だったのだろう。きっと、自分と愛を交わそうと願うなら、その愛撫を待つのでは駄目なのだ。なぜなら彼は屍なのだから。能動的に他者を愛する屍がいるだろうか？
アンドリューが―死者との交歓に長けた彼、他者の肉体を完璧に物化するエキスパートの彼が自分の前に現れたのは、運命としか言いようがなかった。生ける屍と屍体性愛者。これほど似合いの恋人達もそうはいまい。いや、今や彼らは新婚のカップルだった。彼らの愛の生活は始まったばかりなのだ。
彼はその新しい生活の一部を、アンドリューとのある夕食を思い出した。生牡蠣を食べたことがないという彼を、この街のオイスターバーに連れて行った時のことを。当初は恐る恐る、やがて大胆かつ熱心に殻を剥き、その白い中身を啜る恋人の様に、何故かひどく羨望を覚え、そんな自分に困惑を覚えたことを。あれは一体何に対する羨望だったのだろうか？
ジェイは突然悟った。あの時、自分が何に焦がれたのかを。彼は、アンドリューに呑み込まれる牡蠣が羨ましかったのだ。ゴツゴツとした醜い殻をこじ開けられ、貪欲な視線の前にその生白く滑る剥き身の肉を曝す姿に、情熱を込めて吸い上げられ、その温かな狭い喉を滑り落ちていく、痛ましい末路に憧れていたのだ。
今夜の彼はそれを心の底から理解していた。意志に反して力ずくでこじ開けられ、逃げ場無くうち震える白い肉体を貪られ、愛情込めて賞味されるというのはどのようなものであるか。（正確には、彼の白い肉がアンドリューの食道を通るのではなく、アンドリューの赤黒い肉が彼の狭隘な出口を、順路に逆らって通っていったのだが。とすると、肉の味を堪能したのはアンドリューではなく、彼の方なのかもしれなかった）
彼の体験を、是非ともあの時の牡蠣達に教えてやりたかった。或は、アンドリューの体内であの牡蠣達と再会する日が来るかも知れない。消化器系を経由して、その全身の細胞のどこかで。
恐らく、自分とアンドリューはどちらが先に死んだとしても、生き残った方の身体を墓場とすることになるのだろう。少なくとも自分はそうするつもりだった。それはきっと寂しくも豪勢な晩餐になるはずだ。
経験の薄いアンドリューも、彼の肉に対してはきっとそうしてくれることだろう。アンドリューの料理の腕前は未知数だが、彼には確信があった。もちろん異存はなかった。自分の肉―彼自身は決して知ることのないその味を、恋人に味わってもらいたかった。
その前段階として、アンドリューの流儀としての取り扱いを受けること―よく洗われ、内臓を取り出され、パウダーをはたいた青白い身体を鑑賞され、死んでぽっかり空いた後口をファックされること―にも、彼からの異議申し立てはなかった。
反対したところで、どうせ死んでしまえば無効になるのだから。それに、だからこそする意味があるのではないか？生きている身体にはできないようなことを、生前嫌がりそうなことだからこそ、もう抵抗できない身体に、反対することもできない身体に敢えて行う意味があるのだろう。そうすることで、アンドリューは若者達を支配し、その冷たい骸の山に君臨して来たのだ。
そして今や、アンドリューはジェイを生きながらに支配していた。その愛の行為を経て、生暖かい白い毒汁で彼の内部を汚すことで。この冷酷な主人に、彼は支配権を完全に明け渡した。獲物の選択権から料理法、二人の関係の制御権まで全て。そんな彼が今更、死後の自分の亡骸の取り扱いについて、逆らう筈もなかった。
そしてジェイは、自分が恋人の細胞を墓場とすることを、より強く願っていることに気がついた。そこは母方の先祖代々の立派な玄室よりは、彼にとって望ましい墓に思えた。少なくとも、水害や墓泥棒に怯えずにはすみそうだった。例え、ＨＩＶウィルスに冒され、病んだ身体であろうとも。
そのことを考えれば、彼ら二人に残された時間は多くはないはずだった。アンドリューが脱獄犯であるという、危険な身の上であることを併せるまでもなく。アンドリューの身体に、そして今やジェイの身体にも侵入したであろうウィルス達は、その情報をそれ以上は広く伝えることなく、寄生主と共に滅んで行くことを歎くだろうか。
勝手に船に乗り込み、船内を食い荒らし船底に穴を空け、沈んでいく船の中で歎きの歌を歌う逃げ遅れた鼠の如き、哀れなウィルス達。そして、その船が沈む川の名こそは「死」そのものだった。
彼もアンドリューもウィルスも、生ある者はいずれ皆、この大河に呑み込まれ、沈み、流されていく運命なのだ。その川は、この街を囲む毒の流れのように、汚らしく悪臭がするに違いない。
その濁流の中には、彼やアンドリューが愛した若者達の屍も沈み、朽ち果て、川底でぶ厚く層を成していることだろう。そして、自分もアンドリューも、共にそこに加わるだろう。その屍は常に洗われ、流され、留まることなく漂い続けることだろう。
彼とアンドリューはそこで永遠に眠るのだ。死の川底で、かつて愛した者達と共に。
泥の中で、激しく愛を交わすのだ。永遠に終わらない夢を見ながら。永遠に孤独になることなく。
その夢想に彼は微笑んだ。再び眠気が彼の下を訪れていた。彼は温かなそれに、その身を委ねた。完全に委ねきる前に首を巡らし、恋人の傷ついた指に口づけをしてから。
（了）
最初に断っておきますが、これは作中で無理矢理掘られて服従し、掘られた件に関して何のコメントも無いジェイの心中を類推し、妄想したらこうなっただけなのです。決して書き手が、現実の強姦行為を肯定しているわけではないので悪しからず。
創作動機＝「掘られたことについて、ジェイたんはどう思ってるのかな？」以上。だって翌朝すぐに死体処理に奔走してて、掘られたことについて心中の描写すらないんじゃよー！何事もなかったようにアンドリューと接してるし。うーん。こんなとこかなぁと。どうですかね。
あと、何気にこの時のジェイはまだ手錠外してもらってないはず。酷ぇなアンドリュー。次の日の平然としているジェイに対して、
「You、アンドリューの食事に下剤混入して、手錠で繋いで放置しちゃいなＹＯ！」と唆したくなったのはわたしだけでないと信じたい。
2006年6月